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テ レ ホ ン 法 話 |
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当宗門の住職に毎週お話いただいております。
是非お聴き下さい。
( TEL 077-579-0874 )
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12月24日 西教寺社会部主事 中島敬瑞師
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『除夜法楽御案内』
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西教寺では、12月31日大晦日に除夜の鐘を突いて頂くことが出来ます。
除夜の鐘とは、一年間の最後の日に一年間に積み重ねた煩悩を取り除くために行なわれる行事です。この日に限り煩悩を取り除く事が出来ると言われております。煩悩とは人間の持つ様々な欲望であり、またこの欲望があるがゆえに罪を犯してしまうことがあるのです。近年であ欲望のままに生きている人が増えていると思われます。この欲望をおさえ知恵を働かせ平常心を保つことで、人間社会が保たれています。すべての人が欲望をおさえずに、生活すれば互いに奪い合い殺し合う最悪の人間社会が生まれることでしょう。
真盛上人の教えに 「 無欲清浄、専勤念仏 」と、あります。まさしくその教えが今の社会には最も必要な物ではないでしょうか。人が人を殺し、自分のほしい物はどんな方法を使っても必ず手に入れる。その様な社会になりつつあります。このような世の中だからこそ、煩悩欲望を出来るだけおさえ、自分の行なっている行動をもう一度見直すということが大切なのではないでしょうか。その手だての一つが、除夜の鐘であると思います。是非皆様もこの年最後の日に一年間の悪行を落して、新年を迎えられてはいかがでしょうか。
また、新年の三ヶ日には、先着500名様に念珠を授与させて頂いております。本堂内には、おみくじの元祖元三大師様のおみくじがございます。皆様の御来山をお待ちしております。
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12月17日 福井教区 西楽寺住職 教学部長 武田圓寵師
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『あたりくじ』
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師走になると,年末ジャンボ宝くじが売り出され,私もこれを買おうか買うまいかと迷います。買っても当たらないが,買わなければ絶対にあたらない,それならば,買って万が一の僥倖を夢見ようとも思います。
これは,何もせずに一攫千金を目論む浅はかな考えであり,無欲清浄を説かれている我が宗の開祖真盛上人の教えに背くことであります。
冷静に考えれば,宝くじに当たる確率は,交通事故に遭う確率よりも低いそうでありますから,宝くじにあたろうと,のぼせているよりも,交通事故に遭わない今の自分をこそ喜ぶべきであろうと反省しています。
このように欲望は自分で制御しませんと,つい出てしまい,広がっていくものです。だからそのためには,先ず私自身が何ものであるか,その根元をしっかりと見つめておくことが大事です。
法句経というお経の中に,「人の生を受くるはかたく,死すべきものの命あるもありがたし」という言葉があります。わたしが,先ず人間としてこの世にに生を受けたこと,それ自体が本当に難しく奇跡であると言っています。
また,恵心僧都という人は,「まず三悪道を遁れて,人間に生まるること,大いなる悦びなり」と,おっしゃっています。
このように,わたしたちは,まずこの世に生を受けたことを,不思議なことであると感じ,それを心から喜びたいものです。
そうであれば,この世に生まれたこと,それがもう大きなあたりくじであると気づかせてもらえるのでは,ないでしょうか。
ある週刊誌に出ていた次の川柳の一句をもって,無欲の心を養うよすがとしたく思います。
『 生を受け それだけでもう あたりくじ 』
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12月10日 福井教区 放光寺住職 山田泰弘師
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『真盛上人の教えに学ぶ生き方』
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皆さんこんにちは。
私たちの宗祖真盛上人は,今から約500年前 『無欲清浄・専勤念仏』というご遺誡をのこしてお亡くなりになりました。その意味は,人間として踏み外してはならない道をきちんと守り,生かされている自分に感謝することを忘れない生活をおすすめになったものです。即ち言い換えれば,自分中心の計らいを捨てて,仏さまのご本願に素直にお任せしていく生活といえるでしょう。こうした生活こそ,お釈迦様の仏法をいただいている私たちの生活でなければなりません。
翻って今日の社会はどうでしょうか。親が子どもを殺し,子どもが親を殺し,悪徳商人が次から次からと横行し,いじめが子どもの世界を大きく蝕んでいます。これらの問題は,自分さえよければ他人はどうなってもいいという自我中心の考え方,他人の痛みをわかろうとしない全く思いやりのかけらもみられない心の貧しさに起因すると考えられます。かつて日本にやってきたインドの聖女マザーテレサは「日本という国は物質的には非常に豊かな国だが,心は非常に貧しい国だ」と言いました。いったい日本という国はどうなってしまったのでしょうか。
「人間は浄土に往生するために生きているのであって,それが実現しない限り本当に満たされることはない」とは,ある人の言葉です。お釈迦様は,「一切衆生悉有仏性」,即ちすべてのものに仏性を認め,みんな佛になれるとお説きになりました。私たちがこの世に生まれてきた本当の目的は佛になるためであり,生きとし生けるものは皆佛さまのお慈悲の中で生かされているのです。このことは本当に気のついたその時が,救われた姿なのかもしれません。
真盛上人は,『無欲清浄・専勤念仏』という仏行を通して早く仏さまにならしていただきましょうと呼びかけて下さっているのです。そしてこのことは,毎日毎日お仏壇に手を合わせる生活の中から,次第次第に気づかせてもらうことができるのではないでしょうか。
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12月5日 滋賀教区 善通寺住職 宗務総長 西村冏紹師
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『思いやりこそ 人の道』
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皆さん,今日は。お元気ですか。
先日,こんな話を聞きました。或る小学校で,児童が給食を取る前に,手を合わせ「いただきます」と云いました。するとあるヤンママさんが,「給食費を払ってるんだから,「いただきます」も「ごちそうさま」も云う必要がない。」というのです。
また,或る小学校では,卒業時の六年生が,いつも注意や励ましの声を掛けていただいた給食のおばさんに,十円,二十円と自分たちのお小遣いを出し合って,感謝のプレゼントを差し上げようとしました。すると,それを聞いたヤンママさんが「給食のおばさんは,月給を貰って,自分の仕事として働いているんだから,そんなことをする必要ない。」といって,その話は潰されてしまったそうです。
私は,わが国に,なんと言う親が現れてきたのだろうと,一瞬唖然としました。
「いただきます」「ごちそうさま」は,宗教だけでなく,日本の文化です。目の前にだされた食物には,それが完成するまでに,何百,何千という人達の働きによって完成し,目の前に出されて来たものであり,それらに思いをはせ,感謝しながら「いただきます」「ごちそうさま」というのは当然ではないでしょうか。
給食のおばさんに児童たちが感謝の意を表すのも,至極当然のことではないでしょうか。それを打算と合理主義で否定し処理するのは,児童のもつ「おもいやり」の心を摘み取っていることになっているのです。
わが本山では,食事作法として,古来「斎食儀(さいじきぎ)」がありますが,それを現代化した「略食事作法」でいただいています。
『略食事作法』とは,
「食前観」として,
一滴の水も天地のめぐみ,
一粒の米も労苦のたまもの,吾れ今幸いに,
佛祖の加護と衆生の恩恵によって,この清き食を受く,
謹んで食の由来をたずねて,
味の濃淡を問わず,その功徳を念じて品の多少をえらばじ
「いただきます」
「食後観」として,
吾れ今この清き食を終わりて
心豊かに力身に充つ,願わくば,この心身を捧げて
己が業にいそしみ,誓って四恩に報い奉らん
「ごちそうさま」
というものです。
私たちは,青い星の地球の子として生まれ,この尊い掛け替えのない「いのち」を頂き,天地自然の恵みをいただき,労苦のたまものの食をいただいて,いのちを永らえさせていただいているわけです。感謝せずにはおられません。
思いやりのある,心の豊かな人間を目指そうではありませんか。
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11月26日 福井教区 西楽寺住職 教学部長 武田圓寵師
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『いのち』
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お釈迦様の弟子に舎利弗という人がいました。この人は、バラモンの子として生まれましたが、青年になったあるとき、山頂祭と呼ばれる祭に出かけ、山の頂上に登りました。そしてきれいに着飾って、次々に登ってくる大勢の人をみていましたが、「この人々も百年後には一人も生きていることはないのだ、な」という無常観を感じ、出家したと言われています。
この無常観を仏教においては、「諸行無常」という言葉で表し、この世のすべてのものは常ではない、移ろいゆくものである、と説いています。
そうでありますから、私たちのいのちもこの諸行無常の真理によって、ひと時も止まることなく、変わっているのです。
人の一生の中で考えてみますと、誕生してまもなくの赤ん坊のときのいのち、何の心配もなく すくすくと育っていった子供時代のいのち、さまざまな悩みや喜びを感ずる青春時代のいのち、社会に出て働く充実した壮年のときのいのち、一人の人生の中でその時その時にあるいのちです。そして、そのいのちは瞬間瞬間に変わっているものです。
また、人のいのちは、「もの」としてあるのではなく、身体と心とそれを取りまく環境とがたえず変化しながら、調和を保っている「こと」としてあるのです。
ですから、わたしたちが、今生かされていのちある、ということはこのような不思議な調和、バランスが働いているということであり、この働きをして頂いているもの、それが仏であります。わたしたちはこのことにひと時も早く気づかせてもらい、怖れ、敬いの心をもつこと、これが、仏を信じる第一歩ではないでしょうか。
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11月19日 滋賀教区 善通寺住職 宗務総長 西村冏紹師
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『地震・竜巻・詐欺・癌・車』
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皆さん、今日は。お元気ですか?
秋も深まり、秋の夜長に虫の声も一際冴えてきました。秋の夜の怪談ではありませんが、昔から「
こわい 」ものとされてきたものに「 地震・雷・火事・親父 」という言葉があります。でも時代と共に、その内容も変わりつつあり、最近では「地震・竜巻・詐欺・癌・車」という人があります。正に当を得ていると思いませんか。
この一つ一つを吟味しましょう。一番目の地震ですが、最近は世界中で地震活動が活溌で阪神・淡路大震災をはじめ、各地で何千・何万という死傷者が出ています。一瞬にして焦熱地獄・阿鼻叫喚の巷に変わるのですから、恐ろしいことです。
二番目の竜巻。最近は、気象の変化によって、日本でも起こるようになってきました。これまた一瞬にして、家・財産・生命を奪われるのです。恐ろしいことです。
三番目の詐欺は、最近の「振り込め詐欺」を初めとして、法律や規則に疎い老人の盲点をついたあくどい詐欺師がうようよしています。恐ろしい世の中ですね。
四番目の癌は、戦前戦中の結核に変わって、癌が大流行で、老若男女をとわず拡がっています。
五番目の車は、その普及率はめざましく、今や一家に一台、二台という時代になってきました。それに比例して、飲酒運転、不注意運転等による事故も年々増える一方です。
お釈迦様は、人生には「生老病死」の四つの苦しみがあり、衆生の心の根源には根本無明があり、それによって、迷いや欲心が生まれると説かれましたが、「地震・竜巻・詐欺・癌・車」を怖いと思うのは、地震や竜巻が起きても、家・財産・生命を守りたいと思う欲。詐欺にかかるのは、心の奥に潜む貪欲によってであり、癌を恐れるのは、死を恐れ、生きたいと願う欲があるからです。
勿論、人間には、種族保存のための性欲、生命維持のための食欲という二大本能がありますが、それに邪まな欲心が加わらないように、日々懺悔、反省、感謝の日暮らしをしようではありませんか。
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11月12日 滋賀教区 善通寺住職 宗務総長 西村冏紹師
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『「しあわせ」って,どこから来るの?』
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皆さん,今日は。お元気ですか。
私たちは,誰一人として,幸せを願わない者はありませんね。不幸より幸せのほうがいいからですね。結婚・立身出世・億万長者・健康体,みな憧れの的ですね。
では,どうしたら幸せになれるのでしょうか。よく結婚式などで,新婚のカップルに「おしあわせにね」と言います。でも結婚したみんなが幸せになっているでしょうか。そうでもありませんね。「結婚は,青春の墓場なり」という皮肉な言葉があるくらいです。
次ぎに,では立身出世はどうでしょう。一流大学・一流企業とエリートコースを驀進して,社長や財界・政界の実力者になる。成る程,名誉な事です。でも,それらすべての人が,幸せを感じているでしょうか。現実は,必ずしもそうではありません。
では,お金はどうでしょうか。商売や財界で成功して,億万長者になる。無い者からみれば,まことに羨ましい存在です。然し,億万長者が全部幸せでしょうか。これまた,そうではないようです。財産ができたために身を崩す人も少なくありません。
では,健康体はどうでしょう。持病のある人からみれば,羨ましい限りです。でも,健康な方,総てが幸せでしょうか。そうでもないようです。
では一体,本当の幸せとは何なんでしょうか。結婚とか金とは地位・名誉というものは,無い人からみれば,ある人の方が幸せかもしれません。しかし,それらを持っている人でも不幸な人がいるということは,それらがかならずしも幸福のための絶対的な要素ではないということです。
では,どうすれば,本当の幸せが,与えられるのでしょうか。それは,お釈迦様は,「禍いを転じて福となせ」とおっしゃっています。また「足ることを知れ」とか「足を知るを富となす」とおっしゃっています。つまり,幸せは,自分自身をとりまく外にあるのではなく,自分の心の中にあるのです。禍が押し寄せてきても,それに屈することなく,かえって福とする心が大切なのです。欲を張らずに,足ることを知る生活の中に,本当の幸せがあるのであります。
皆さんも,今,私が申し上げているような本当の幸せを皆さん方の心の中に,みつけて下さることを念願してやみません。
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11月5日 福井教区 西楽寺住職 教学部長 武田圓寵師
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『信ずるということ』
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「いわしの頭も信心から」ということわざがあります。これは,いわしの頭のようなつまらぬものでも,信仰するとひどくありがたく思える,ということですが,どんなものでも,それを信じることによって,自分の心の平穏が得られるということでしょう。
しかし,現代の社会においては,うっかり信じてしまうと,とんでもないことになってしまうことが多いものです。たとえば,「おれおれ詐欺」などは,その典型でありましょうし,「耐震偽装問題」も,建物の設計が法律どおりになされていると信じて,マンションを購入した人が,ひどい目にあった例であります。
また科学的,合理的な考え方に慣らされている私たちは,それによって証明することのできない事柄については,疑いを持ち,信じようとしないものです。
このように,信じるということが困難な時代でありますが,その信ずるということが一番大切なもの,それが仏教であります。仏教は学問として勉強しても,それは信仰ではありません。心から仏を信ずること,このことがまず大切なのであります。
昔,ある人が,山寺の坊さんを信じて,どんなことでも頼りにしておりました。ある時,その人が病気になり,坊さんに尋ねたところ,山に生えている藤のつるをせんじて飲むように言われ,それを信じて飲んだところ,その病気が治りました。それから後,その人が養っていた馬がいなくなり,それを坊さんに相談すると,やはり藤のつるをせんじて飲むといいと言われた。その人はちょっとおかしいとは思いましたが,それを信じて,藤のつるを求めて山奥に分け入って探していたところ,谷のところにいなくなった馬を見つけることができた,という話があります。このたとえ話は,どんなことでも信ずるということによって,功徳を得,心の平穏を得たという例です。
私たちも,疑いの多い現代にあって,固い信心を一時も早く持ち,仏を信ずる心豊かな日々を送りたいものです。
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10月29日 滋賀教区 善通寺住職 宗務総長 西村冏紹師
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『お授戒と六根清浄の生活』
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皆さん,今日は。お元気ですか?
先日,本山では,4年に一度の在家受戒会を開きました。各地から善男善女が,一週間の間に壱千人近い方々が入壇されました。
わが西教寺の授戒会の由緒をみると,嘗て後白河法皇が勅願寺として,京洛岡崎に法勝寺を創建され,その後,後醍醐天皇が,叡山黒谷で戒法の復興に偉大な力を発揮していた恵鎮上人を大勧進に迎え,復興させましたが,それ以降,応仁の大乱で壊滅状態となり,後陽成天皇はついに法勝寺の末寺であった西教寺に兼併せよとの綸旨を下し,それ以降西教寺は
『 兼法勝西教寺 』と称せしめられましたのであります。
従って,西教寺は黒谷から展開した法勝寺流円戒を本寺を兼ねて授戒会を開いているのであります。お授戒によって仏子とならせて頂き,法名(戒名)をいただくのですが,一番大切なことは,お授戒によって心の中に戒体を発得させて戴いたことです。戒体とは心の中の光です。
私たちの平生の心は常に 「 貪欲 ・ 瞋恚 ・ 愚痴 」の三毒や百八の煩悩に邪魔されて,私たちの本来持っている仏性(仏となる本性)が現れないのです。このもろもろの煩悩を戒体によって打ち消してもらうわけです。この戒体は
「 一得永不失之戒 」 ともいって,ひとたび得れば,永遠に失われない戒なのです。
お授戒によって身も心も仏子とならせていただいた私たちは,お念仏と共に,六根清浄の生活をなし,明るい家庭,明るい社会にし,共存共栄
・ 共生の世界,平和な世界の建設を目指そうではありませんか。
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10月22日 福井教区 西楽寺住職 教学部長 武田圓寵師
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『目不暫捨』
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お経の言葉の中に「目不暫捨」という言葉があります。これは,「目は暫らくも捨てず」と書きますが,「目をひと時もそらさない」という意味です。
そして,これは私たちが仏に帰依するとき行うことであって,「自己の頭面を仏のみ足に接して仏の尊いお顔を仰ぎ見,そこから暫らくも目をそらさない」ということです。
一方,「眼は口ほどにものを言い」ということわざがあります。「相手の眼を見ているとその人の言おうとすることがわかる。その人の心がわかる」という意味です。
ですから,目はその人の心を映し出すものであり,どんなに隠していても目を見れば,その人の心がわかるということでしょう。
私たちは,人と接するとき,相手の目を見て,相手の目からそらさずに接しているでしょうか?
相手から,自分の心を見透かされそうだから,と目をそらしてはいませんか?
仏にまみえるとき,目を片時もそらさないことができるのは,自分の心が清浄なときです。自分のおごりや欲望や怒りの心がないときです。自分の心を清らかにして仏に帰依するとき,目を片時もそらさずに,「目不暫捨」でいられるのです。
そうでありますから,わたしたちは,お仏壇にお参りしたときなど,仏にまみえるとき,この目不暫捨をおこなって,常に自己の心を清浄にしていたいものです。
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10月15日 滋賀教区 善通寺住職 宗務総長 西村冏紹師
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『子は親の背を見て育つ』
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皆さん,今日は。お元気ですか?
昔から,「子は親の背を見て育つ」といいますね。赤ん坊の時は,一途にお母さんに頼り切って,お腹が空いてオッパイが欲しい時とか,お母さんが傍にいない時は泣き叫びます。
少し成長して,子供時代になると,両親や祖父母,兄弟の一挙手一投足を見て,見習っていく訳です。そういう事から,家族の日常の言動が大切な事なのです。
ところが,戦後,核家族で,親子が別居するようになり,その家先祖代々伝えられてきた家の「しきたり」が伝わっていかないのではないかと案ぜられます。オーバーな表現かもしれませんが,日本文化の断絶です。
戦後,昭和3,40年位までは,自坊の彼岸会・盆施餓鬼会等の年中法要や,お墓参りには,お爺さん,お婆さんが孫を連れてお参りされました。その当時若かった私は,子供たちに紙芝居や幻灯を写し,教化活動をして喜ばれたものです。ところが,現在親子が別居されたために,お年寄りが孫さんを連れて参詣される方が無くなってしまいました。
こうなってくると,子供さんが仏様に手を合わせる機会が少なくなり,お爺さん,お婆さん,お父さん,お母さんのお寺参り・墓参り等の信仰生活の背を見なくなるわけで,子供さんたちは,今後どのように育っていくのでしょうか。
また,最近気になるのは,学校における「日の丸」や「君が代」の強要が違憲だという判決です。まだ,控訴があるようですが,若し,違憲という判決が通れば教育現場どうなるのでしょうか。この問題で自殺された校長もおられるとか。こういう混乱の先生方の背を見て育つ子供は,どのような大人に成長し,どのような日本になっていくのでしょうか。このことの方が重要な問題ではないでしょうか。
世界のなかで,自分の国の国旗や国家を大切にしない国民はありません。学校の入学式や卒業式はセレモニーです。厳粛なセレモニーの場で,てんでんバラバラな行動をされたんでは,セレモニーはぶち壊しです。子供の健やかな成長を願う皆さん,真剣に考えようではありませんか。
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10月8日 福井教区 西楽寺住職 教学部長 武田圓寵師
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『ないものねだり』
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わたしたちの天台真盛宗を開かれた真盛上人は,無欲清浄の生涯を貫かれた聖です。人間の欲望と言うものを徹底して考察され,それを清浄な心に高めた人です。これは,江戸時代の清貧の僧,良寛に通じるものがあります。
ところが,現代では,この無欲(欲がない)という言葉は,まったく浮世離れしたことばであるかように思われています。
たとえば,私たちは毎日,人の欲望をあおるコマーシャリズムの中にさらされています。欲望を満たすことが幸せであるかのように宣伝され,欲望を満たせない人は,負け組である,といって切り捨てられるありさまです。
そして,その欲望を満たすこと,たとえば,一流の学校に入り,一流の会社に勤め,立派な住宅を持ち,高級車を乗り回すこと,などなどがあたかも人生の最大目標であるかのように,そのコマーシャルは私たちをそそのかすのです。
しかし,わたしたちは,これらの多くの欲望を全部満たすことのなどは,とても出来ません。たとえ,一つの欲望が満たされたとしても,それは,すぐに次の新たなより大きな欲望が心の中に生まれてくるからです。
そして,悪いことには,私たちは,これらの欲望が満たされないと,そこに大きな欲求不満をもってしまうのです。
したがって,私たちが欲望を満たそうとすること,それは自分の人生を幸福にすることではなく,逆に自分の人生を不幸にしてしまうのです。
ここに,真盛上人が無欲であれ,と教えられた意味があるのです。
もちろん,現代においてまったく無欲であっては,生きていくことは困難でしょう。しかし,欲望というものは,人生を不幸にするものでもあるということはしっかり認識したいものです。
そして,少欲知足の考え,いまあるものに満足する心を養い,ないものねだりをして,自己の心を欲求不満の温床にすることなく,清浄な心で毎日を過ごしたいものです。
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10月1日 総本山西教寺 社会部主事 中島敬瑞師
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『在家授戒会について(案内)』
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西教寺では,10月9日より7日間の間,在家授戒という行事が執り行われます。授戒会とは,仏様を礼拝し良くない心を反省してから,戒を授けてもらい,その教えを守ることをお誓いする儀式です。
例えば,仏教徒としての最も基本的な戒をあげますと,「 三聚浄戒(さんじゅじょうかい)
」と「 五戒 」です。
三聚浄戒とは,「 摂律儀戒 」。悪いことをしない,子供がいる親ならば,悪いことをさせないでだけでなく,悪いことをわるいと教えてあげる。「
摂善法戒 」。良い行いをする,「 摂律儀戒 」と同じく子供に善いことを善いと教えてあげる。たとえ,子供が50歳であっても,善い悪いの区別がつかなければ教えてあげる。「
摂衆生戒 」。みんな仲良くすること。 この3つを三聚浄戒といいます。
次ぎに 「 五戒 」です。
まず,一つ目は「 不殺生戒 」。すべての命を大切にする。二つ目は「不倫盗戒
」。人の物や他の物を奪ったり盗んだりしない。三つ目は「 不邪淫戒 」。人の道に外れた行いはしない。四つ目は「
不妄語戒 」。嘘偽りを言ってはいけない。五つ目は「 不飲酒戒 」。お酒を飲まないこと。このように戒とは,防非止悪(ぼうひしあく)と言って,日常の我々の行動を非道,悪から遠ざけようとする,僧侶も在家信者も保つべき日常具体的な心がけです。この当たり前の人間社会のルールを仏様の前で自分自身に誓うことで一人一人が仏となる第一歩を踏み出すのです。各御宗旨のよって様々な受戒があると存じますが,一度御請になられてはいかがでしょうか。当山では4年に一度のお授戒になっております。ぜひ壇信徒の皆様,仏となる第一歩を踏み出されてはいかがでしょうか?
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9月24日 滋賀教区 深光寺住職 寺井良宣師
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『食前と食後のことば』
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私たちにとって食べることは,いのちを保つ上で最も大切なことです。また,食べることほど,うれしく楽しみなことはありません。反対に,病気とか食糧難などの理由で,食べることのできないときは,これほどつまらなく,つらいことはありません。昔の誰かの告白に,「寒さと,恋しさと,ひもしさとをくらぶれば,恥ずかしながらひもしさが勝つ」という,まったく同感できる言葉があります。
この食べるということは,家庭においては家族のきずなを造る上で,とても大切な役割を果たしています。お父さんとお母さんを中心に,子供たちがその隣に連なって,ひとつの食卓を囲むという光景は,昔から日本中の家庭に見られました。食べ物が不足していた時代には,子供らは一皿のおかずを分けあい,また取り合いし,あるいは父と母は子供たちに公平になるように仲裁し,時には自分は食べずに子供に与えるという具合でした。
ところが,今日,食糧は満ち足りているけれども,家庭のみんなが忙しくなって,家族揃って食卓を囲むことがなくなってきています。両親はよく働き,経済状態もよく,子供たちに食べることの不足を感じさせてはいないけれども,子供がひとりポツンと食事をしていることが多くみられます。このことはしかし,実は悲しい光景だと思います。しかも,今日の私たちはそのことをよくないこととも,悲しいこととも思っていない。そこに私たち現代人の大きな盲点があるのではないでしょうか。
そこで,様々な事情と,もっともな理由によってそのようになってきたとしても,それによって失われるものの大きなことを顧みるときに,せめて一日に一度は家族がそろって食卓を囲むことは,しようと思えばできることと考えます。そして,できることなら一緒に食事をする時は,テレビを消してコミュニケーションの食卓にしたい。しかもそこに,食前・食後の言葉をそえることをぜひともお勧めします。天台宗では,例えば宗門校の比叡山中学などでは,次の言葉を唱えます。
まず,食前の言葉は合掌して「我れ今幸いに仏祖の加護と衆生の恩恵によって,この清き食を受く。謹んで食の来由を尋ねて味の濃淡を問わず。その功徳を念じて品の多少を選ばじ。いただきます。」と唱え,食後には「我今この清き食を終りて心豊かに力身に満つ。願くは,この身心を捧げて己が業にいそしみ,誓って四恩に報いたてまつらん。ごちそうさま。」と手を合わせます。
我が家ではダイニングの壁に,これらの2つを大きく書いて皆で唱えてから食事をすることにしています。毎日誦えれば,その意味はおのずと分ります。そして,親を中心とするとか,子供を中心にするというのではなく,今の豊かな社会に恵まれてある食べ物をまん中にして,感謝の念を献げることが,現代人の知性と品格である,と考えるのが正しいのではないでしょうか。
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9月17日 滋賀教区 善通寺住職 宗務総長 西村冏紹師
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『共生の自然を取り戻そう』
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皆さん,こんにちは,お元気ですか。
戦後の経済成長のお陰で,「もの」の豊かな時代になったことは結構ですが,それがために環境破壊もひどくなり,その対策に大童です。
私の自坊は人口30万人の中都市の中央,駅前の商業地域に位置しています。3,40年前までは,境内に,春はうぐいすが囀り,チョウが舞い乱れ,夏には蝉が五月蠅いほど鳴き,蛙や蛇,テンまで出てきました。秋には赤とんぼが飛び交い,冬にはムクドリがイチョウの大木に沢山止まりにきました。その他,年中カラスやハト,スズメがやってきて,野鳥の楽園でした。
それが,いまでは,殆んど姿を消し,僅かに冬から春にかけ,ウグイス,夏には蝉ぐらいで,年間を通して来ているのは獰猛なカラスぐらいです。農薬を撒かない境内ですら,こんな惨憺たる状態です。
これは,明らかに,人間が環境を破壊して,野鳥等の「いのち」を奪ってしまったのです。これでは,共生の自然とは云えません。仏教では,「一切衆生悉有仏性」「山川草木悉皆成仏」と言います。動物・植物総てに「いのち」があり,人間はその「いのち」をいただいて,自分の命を永らえているのです。感謝しなくてはなりません。国家,企業は勿論のこと,総ての人々が,ゴミ処理をはじめ,出来うることに協力して共生の自然を取り戻そうではありませんか。
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9月10日 福井教区 西楽寺住職 教学部長 武田圓寵師
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『毒まんじゅう』
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東北地方の民話に毒まんじゅうという話があります。仲の悪い姑と嫁の話です。姑を殺してしまいたいほど憎しみを持った嫁が,相談に行った和尚さんからもらった毒まんじゅうを姑に与えます。この毒まんじゅうは食べてから7日経つとその毒が効いて死ぬというものです。ところが,姑にこの毒まんじゅうを食べさせてから,嫁は自分のしたことが恐ろしくなって姑に優しい言葉をかけたり,好きなものを買ってあげたりします。一方,姑のほうもまんじゅうをもらったり,優しい言葉をかけてくれるものですから,今まで憎しみを持っていた嫁に対して,本当は,いい嫁だったのだ,と考え直すようになります。とうとう,嫁はこんないい姑を殺そうとしたのを深く恥じて,和尚さんにその毒が回らないようにと泣いてお願いします。その結果,姑は死ぬこともなく,二人は世間にも珍しいほどの仲のいい姑,嫁になったということです。
さて,お釈迦様は,仏教とは,人間と人間の関係を教えるものであり,その目的は,すべてのものが幸せになれるよう人は他人にどう振舞えばよいのかを教えることにあると説いております。
それでは,仏教はすべての人が幸せになれるには,どうしたらよいと教えているのでしょうか?
もし,この姑と嫁とのように二人の関係が良くないとしたら,それは自分を変えるか,相手が変わってもらうかです。そしてこのようなとき,先に相手が変わるべきだと思いがちでありますが,それをあてにすることは難しいことです。
したがって,他人との良い関係をつくり,幸せになるには,まず,自分を変えることです。自分の行いを正しくすることです。悪いことをせず,良い行いをすることです。そして自分の心をいつもきれいにしておくことです。毒まんじゅうの民話はそのことを教えています。
そのようにして,自分を変えれば,他人との関係が変わり,そこに良い人間関係が生まれ,幸せな生活ができるのではないでしょうか。
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8月28日 総本山西教寺 社会部 主事 中島敬瑞師
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『重陽の節句』
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9月9日は重陽の節句の日ですが、当山では、重陽の節句会といいましてその日にご本尊様へ菊香煎を献茶し、ご詠歌をご奉納いたします。この9月9日の節句は9という数字が月と日に重なることから「ちょうきゅう」ともいいます。中国行事の渡来したもので、邪気を避け、寒さに向かっての無病息災、防寒を願う日だそうです。その日に高台にある建物の柱にしゅゆ(カワハジカミ)の袋を菊とともにくくりつけて、菊酒を飲むとその年は病にかからず、長寿になれるといわれているそうです。
このように伝統というものから沢山のことを学ぶことが出来ると思います。最近では伝統を軽んじる傾向がありますが、家庭においての伝統はご先祖さまの言い伝えまた、習わしでありこの各家庭の伝統習わしを守るということは、先祖を敬い父母を敬いまた、自分を敬うと言うことではないでしょうか、この敬いのこころというものが大切だと思います。お釈迦様の教えに「いんねんしょしょう」という教えがあります。この世の中にあるすべてのものは原因があって、その原因からはじまり様々な縁によって、今があるという考えです。ご先祖様や両親の愛情ある行動、周囲の人々の助けによって今の自分がいることに気づき感謝し敬うことが大切だと思います。
どうぞこの伝統行事であります重陽の節句会にご家族おそろいで、ご家族の無病息災、長寿を願いお参り頂きますように御案内申し上げます、また、当日は無料にて菊酒をお出ししておりますので是非ご賞味下さい。
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8月20日 福井教区 西楽寺住職 教学部長 武田圓寵師
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『いただきます』
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最近,食育という言葉をよく聞きます。食とは食べ物,食べることであり,育とは,育てる,成長することであります。ですから「食育」という言葉で言わんとすることは,「人間の健全な成長には正しい食べ物を正しく食べるということが大切だ。」ということでしょう。そして,この大切さを「学校教育の中で教えていこう」ということでしょう。
そのこ自体は,大変立派なことであり,「食」というものの大切さはいくら強調してもしすぎるということはありません。ただ,これらの食育論議の中で,気がかりな意見があり,これについてはいかがなものかと疑問に感じたことがあります。
それは,学校給食の現場で,児童生徒が給食を食べる時に,「いただきます」というのは必要でないという意見です。なぜなら,給食については,給食費を払っているのだから,それを食べるのは当たり前の権利であり,それを「いただきます」というのは不必要だ,というのです。
これは一見したところ,正しい意見のように思われます。資本主義社会の中では,お金で正当にあがなったものは,自分のものになったのであり,それを食べるのに,なぜ,いただきます,と言わなければならないのだ,と言う考えです。
しかし,これは大きな誤った見解であります。たしかにお金で支払ったものではありますが,その給食として,子供の前に出されるまでに,いかに多くの人が関わってきたか,いかに多くの縁がつながってきたか,を忘れているからであります。
「いただきます」という言葉は,お金だけではあがなうことのできないこの多くの人や縁に対する感謝の気持ちを表すものです。
ですから,食育という言葉の中にも,この縁起の理法を教え,食べさせていただくのだ,という感謝の心を育てていくという意味をも含めていきたいものです。
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8月10日 滋賀教区 善通寺住職 宗務総長 西村冏紹師
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『何事も因縁ごとじゃ』
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皆さん,こんにちは。お元気ですか?
私が子供の頃には,近所のお婆さんが,「何事も因縁ごとじゃわいのう。」と話されているのを,よく耳にしたものです。そう云うような,むしろ,消極的な意味に使われているように聞こえました。
こう云う会話も,最近では,だんだん少なくなってきました。でも,この会話にみられる「
因縁 」と云う言葉も立派なお釈迦様の教えを表す,意味深い言葉なのです。
一般社会では,「 因果 」といっています。つまり,因,原因と果,結果とからなります。原因があって,そこから,結果が出てくるのです。
ところが,仏教では,因・縁・果と因と果の間に縁を説くのです。例えて云うと,ここに柿の種がある。これが因です。直接的な原因です。この種を果樹園の業者の方が,畑に蒔いて,水や肥料をやり,太陽の光を浴びて,木が大きくなって花が咲けば,受粉の手助けをして,実を結べば,防虫のために袋を被せるなどして,やがて見事な柿の収穫の時期を迎えるのです。
収穫を迎えるまでの様々な手立てを縁といいます。つまり,間接的な助縁です。そして,見事な柿の収穫,これが,最終的な果,結果なのです。
このように,因・縁・果と説かれた教えをつづめて,「 因縁 」と云い,世間では「
因果 」といっているのです。したがって,「何事も因縁ごとじゃ。」は決して「
あきらめ 」「 断念 」を意味するものでなく,「物事の道理を明らかに究める」ことを表している言葉です。
今,私がここに居られるのも,両親から尊い命を頂いたことを因とすれば,その後今日までの間に,無数の間接的な助縁を頂いてきたわけであります。感謝せずにはおられません。「
因・縁・果 」の教えを通じて,わが身を振り返ってみるのも,意義あることではないでしょうか。
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7月23日 滋賀教区 深光寺住職 寺井良宣師
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『少欲知足(しょうよくちそく)のすすめ』
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今日の日本で,自殺する人が毎年3万人をこえることが,大きな社会問題となっています。これは社会問題となる前に,自殺の本人にとっては深刻な個人的問題でありましょう。その年代と階層はいろいろですが,中・高年層が最も多いようです。かつて集団就職によって,田舎から出てきた私のような年代が,一番多くて,その挫折の心情は人ごとではなく,私にも分かる気がします。
そこで,リストラ・不況・生甲斐がないなど,納得できる理由がいくつも並べられ,また直接の原因は人それぞれに違っていますが,仏教のなかでこれを考えるときは,私たちの欲望がきわめて増大していることが,最も基本的な要因であると思います。私たちが幼い時,もっと貧しく食べ物もなかった頃には,自殺者はずっと少なくて,食べることに困らず,豊かになった時代に,はるかに増えているからです。つまり,人並みに便利と贅沢ができなければ,生甲斐がないということです。これをまた「
精神が弱いからだ 」と責めることも酷です。もともと人は個人としては弱いものだからです。
経済成長を遂げ,ものを豊かに享受できるようになったとき,私たちの欲望もまたそれを越えて,すっかり増大してしまいました。昔,バナナのなかった頃に,たまたまバナナを腹一杯に食べることが出来て,感激したことを思い出しますが,あの幼い日の充足感は,私自身が今日再現できないほどに欲望が肥大しています。
しかし,仏教では人間の苦しみは欲望を原因とし,欲望の大きさはその結果として苦しみを増す,というのがお釈迦様以来の基本的な考え方です。つまり,物が豊かになる以上に欲望が増大すると,相対的に充足感は減り,不満がつのり,そして欲望の充足がもはや望めないと分かったときに,生甲斐を失うという道理です。
ところで,日本の仏教では,浄土教と呼ばれる阿弥陀仏の信仰がもっとも普及しました。阿弥陀仏の名を唱えて,その浄土に生まれて,阿弥陀仏のもとで覚りを得るという教えです。私どもの宗祖・真盛上人も,天台宗においてその教えを弘めました。真盛上人のみならず,浄土教の祖師たちが共通して強調したことは,「
少欲知足 」ということです。欲を少なくして足ることを知る,という教えです。浄土とは,阿弥陀経に手際良く説かれているように,物質的にも精神的にも豊かな世界です。そこに生まれることはしかし,決して欲望が増大することでも,増大した欲望に満足を得ることでもありません。欲望の増大には苦しみを増すもとでしかないということです。そして,一旦肥大してしまった欲望に少欲知足を求めることは,そう容易いことではありません。悟りを開くという高いことは考えなくても,現代の私たちにとって少欲知足をいかに工夫して身につけるかが,私たちが真に幸せになるためのカギであると思います。
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7月15日 福井教区 西楽寺住職 教学部長 武田圓寵師
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『とらわれの心と慈悲の心』
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毎日,私たちがテレビを見ていますと,さまざまなコマーシャルが流れてきます。それは,私たちの欲望をあおり,快楽をさそうものであり,宣伝されたものを買えば,欲望が満たされ幸福になれると言わんばかりであります。
しかし,果たしてそうでしょうか?
たしかに,私たちは欲しいと思っていたものが手に入ったときには,その欲望が満たされるのですが,その幸福感は一瞬であります。たとえば,高価な車を買ったとき,その時にはそれに満足していますが,つぎの時にはもう次ぎの欲望が出てきて,より高い車がほしいな,と思うものです。
つまり,私たちの欲望は,それが満たされた瞬間に,次の新たな欲望が生まれてくるので,いつまでたっても無条件の幸福感を得ることができないのです。
そして,その欲望は,ものにとらわれた執着の心から生まれるものであり,この執着の心から次々と生まれる欲望を満たすことは,たとえ一時的には可能であっても,根源的には不可能だからです。
したがって,私たちがこの無条件の幸福感を得ようとするならば,それは,欲望を満たそうとすることではなくて,その欲望のもととなっている執着心から解放されるよりほかにはないのです。わが宗の開祖真盛上人のいわれる無欲清浄の教えは,自己の心にあるこの執着の心を取り除きなさい,と言うことであります。
それでは,この執着の心をどうしたら取り除くことができるのでしょうか?
執着の心とは,自己中心的な心であり,自己にみずからがとらわれている心,ということですから,これに対して他の人の存在を認めようとする慈悲の心を養うことです。
私という存在は,決して私だけで成り立っているのではなく,縁起によって結ばれたほかの人があるからこそ,という心を培うことです。
そうすることによって,私たちは執着の心から解放され,無条件の幸福感を得ることができるのです。
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7月9日 滋賀教区 深光寺住職 寺井良宣師
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『無常の教えを知って心を豊かにする』
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お釈迦様のよく知られている教えのひとつに,無常というのがあります。平家物語で,「
祇園精舎の鐘の声,諸行無常の響あり 」と唄われることに代表されるあの言葉です。無常の教えは,四季変化が明瞭である日本で,とくに日本人に心の情操や文化を育んできました。世界に誇る日本の文学作品の多くが,無常観をテーマやモチーフにしているといっても過言ではありません。
無常とは,すべての移り変わってゆくという意味であり,「 いつまでもあると思うな親と金
」ばかりでなく,自分を含めたすべてのものは変化している,ということです。このことはしかし,知性豊かな現代人からみれば,確かに普遍的真理ではあるが,あたりまえの事実を言っているにすぎず,どうしてそれが教えになるのか,ということではないでしょうか。
そこで,私たちが無常を身に迫って感ずるのは,不幸か挫折に陥るときといえます。幸せで,順風満帆のときは無常であるとは思わず,またそのことにきわめて鈍感です。けれども,誰においても無常をヒシと感ずるときは,必ず来るわけです。若く活きのよかったのが老い劣えてくる。健康であったのが病をくり返すようになる。そして,死ぬことは誰にも必ずやってくる決定的な挫折といえましょう。
ところが,私たちは妙なことに,幸せで順風満帆であるときは,えてして心は豊かでないことが多いのではないでしょうか。無意識にも傲慢になり,自己に執着し,自我を誇示している(自分では気がつかないことが多いですが)。むしろ,私たちは挫折に陥り,不幸に見舞われたときに,心を豊かにし,弱き者や恵まれないものに対するやさしい心を持つことができるようになる。それが,無常を知るということではないでしょうか。
昔,美貌で知られている小野小町の有名な歌に「 花の色は移りにけりな,いたずらに,わが身世にふる
ながめせしまに 」というのがあります。小町は全国に生没地や墓があると言われますが,とくによく知られているのは秋田県でしょう。「
あきたこまち 」とか「 秋田美人 」というのは,小町が発祥で,小町は秋田で生まれ,秋田に帰って亡くなったといいます。この歌は小町が都にいたときではなく,年を加えて秋田へ帰るときの頃でしょう。若くて美しさの絶頂にあるときには,羨望と嫉妬心の的であったでしょうが,衰えの無常を感ずるときの歌が,小町の人間的な心を感じさせ,誰にも共感され有名になったといえます。
私たちは無常の教えを知ることによって,心を豊かにすることができ,同時に自分も挫折と不幸を体験する身であることを知ることによって,力なき者の立場にたち,弱き生きとし生けるものに共感する心が育くまれるのではないでしょうか。
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7月2日 滋賀教区 善通寺住職 宗務総長 西村冏紹師
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『科学のない宗教は盲人である』
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皆さん今日は。私は先に、ドイツの大物理学者アインシュタインの言葉『宗教のない科学はいびつである。』を引いてお話をしましたが、アインシュタインはその言葉に続けて、
『科学のない宗教は盲人である。』といっています。
つまり、社会や地球・宇宙等に存在する物質の研究成果やいわゆる科学的な研究成果は疑いないものとして、現代人の頭脳の中にインプットされています。
従って、心の問題を扱う宗教において、もし非科学的な説明をしたとしたら、もはや現代人には受け容れられなくなっているのです。そこのところを、アインシュタインは『科学のない宗教は盲人である。』といっているのです。
このように、アインシュタインは、宗教を無視した科学は人類や地球を滅ぼすような核兵器をつくるし、科学を無視した宗教は、婬祀邪教に走ったりして、本来の宗教の使命を果たさなくなってしますと説くのです。科学と宗教が車の双輪のごとく、鶏の双翼のごとく機能してこそ、真の世界平和が訪れるのです。その点、仏教は、すべてのものを「色即是空」「空即是色」と説き、「因・縁・果」の縁起を説いて、聊かも科学と矛盾しません。世界の仏教学者は「21世紀の宗教は仏教である。」と指摘しています。それは、科学と仏教とが矛盾していないからです。
科学教育を受けられ、公立学校で宗教教育を受けられていない方々の中には、宗教に無関心であることが、憲法や教育基本法に沿うものであるかのような風潮が見受けられます。
これでは、「物に溺れて、心で滅びる」人間が出来るのです。
皆さん、アインシュタインの言うように、科学と宗教とを、車の双輪のごとく機能させて、異常とも思える凶悪犯罪を生み出す社会の解明に乗り出そうではありませんか。
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6月25日 滋賀教区 深光寺住職 寺井良宣師
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『いただきます、ごちそうさまの心』
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6月は梅雨の季節です。昔から世間では「晴耕雨読」という言葉があり、仏教では昔から「夏安居(げあんご)」という期間があって、お盆前の3ヶ月間は雨をさけて、主としてお寺やお堂の中で修行や仏事が行なわれました。夏がすぎた秋にはまた、別の安居があり、冬までの3ヵ月間に種々な仏事を行なうならわしです。天台宗には今日でも、千日回峰行という、すばらしい修行を満行なさる方がありますが、この回峰行が百日を単位に行なわれるのも、昔からの仏教にある安居の期間を基準としているといえます。
さて、この夏安居というのは、インドでは日本よりももっと極端に雨ばかりが3ヵ月間降り、お釈迦様がこの期間を安居と定めて精舎の中で勉学することを勧められたのは、外で働くのは適しないというばかりでなく、この期間は雨の中で沢山のいのちが生まれ育つ期間であり、外で人が活動することは多くの幼いいのちを殺すことになるからで、この理由がお釈迦様には重宝なものだったのです。つまり、お釈迦様の教え、仏教の心は、「いのちあるものに限りなくやさしい心をもつ」ことを本質としています。
ひるがえって、私たちにはこの自然の中から多くの食べものをいただいています。そして、その食べものはすべてがいのちあるものです。このことを仏教ではとくに重く受けとめて、殺生をなるべくしないように、あるいは無用な殺生を慎もう、ということを強調します。私ども僧侶が修行をするときには、食事作法はとくに厳密に行なわれます。これは、食べることがいのちをいただくことによって殺生をし、そのことが仏様の心を傷つけているからです。
私たちが日常の生活のなかで、食事をいただくときに手を合わせて、「いただきます」
「ごちそうさま」というわずかな言葉は、私たちの心の豊かさ、その情操を育むのにとても大切な意味をもっています。仏教では、人にものを施すことを「布施」といい、これも大切な徳目として教えますが、食事は多くのいのちあるものが、いのち丸ごと私に布施してくれていると考えますと、自分の恵まれた境遇に感謝の念をもち、これをわずかな形、行いに表現することは是非必要なことであり、このことを差しおいて「心の豊かさを育む」などということは有り得ないと思います。
今日「いただきます・ごちそうさま」というささやかであるが、大切な家庭の風習が、日常の団らんの中で軽視される傾向にあります。また現代の私たちは、経済的効率とか、人間中心主義のなかで、野生や身近な動物、生きものたちにとても無慈悲になっているのではないでしょうか。いのちあるものに対する共感とやさしさが、人を幸せにし、心を豊かにする源であることを、お釈迦様は教えています。
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6月11日 福井教区 西楽寺住職 教学部長 武田圓寵師
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『健康に勝る恩恵はなく、満ち足りた心に勝る宝はない』
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『健康に勝る恩恵はなく、満ち足りた心に勝る恩恵はない。』これは、お釈迦様の言葉です。
健康でいられることは、本当に幸せでありますが、それは与えられた恩恵、恵みであり、自らの意志や力で得られるものではありません。それは、大いなる力がさまざまな縁によって結ばれることによって、得られるものです。そして、人生の中で与えられる多くの恩恵のうちで、健康でいられるほど、すばらしい恵みはない、と説かれたのです。
一方で、お釈迦様は「満ち足りた心に勝る宝はない」と説かれました。満ち足りた心、それは、今の環境に従順であれ、とか、現状をすべて肯定受け入れなさい、と言うような消極的なことをいっているのではありません。
私たちの心は、自分で注意をしていないと、際限のない貪欲、むさぼりの心になりがちです。ですから、常に自分の心に注意を払って、このむさぼりの心を制御することが大切であり、これを満ち足りた心と表わしたのです。私たち天台真盛宗の開祖真盛上人が無欲清浄と説かれた意味もこの満ち足りた心をしっかり保ってほしいということにあります。
さらに、この満ち足りた心は、健康と違って恩恵、恵みではありません。それは宝であります。宝ですから、それは自らが見つけ出すことが大切であり、また、見つけようとすれば、自らの力で必ず見つけることができるものです。
私たちは、この満ち足りた心という最高の宝を早く見つけ出し、それをいつも大切に保っていたいものです。
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6月5日 西教寺社会部主事 中島敬瑞師
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『明智光秀公顕彰会御案内』
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西教寺は、明智光秀公の菩提寺であり、境内には明智光秀公一族のお墓がございます。西教寺と光秀公の関係でありますが、光秀は戦国時代の代表的な武将織田信長に仕えた一武将でした。光秀は天下を狙う信長について近江に入り、その平定に活躍したのです。特に元亀二年信長は延暦寺焼き討ちを行ないました。その時、西教寺を含め、約三千の寺院を焼き払ったと言われております。
その直後に築かれた坂本城の城主となったのが光秀公でした。光秀は西教寺の檀徒となるにおよび、西教寺復興に大きく力をそそぎました。
また、元亀四年の堅田の合戦のときに戦死した部下18人の霊を弔うために、西教寺へ供養米を寄進しており、今もその文書が西教寺に保存されています。文書には武士も中間(ちゅうげん)も区別なく供養米寄進したことが、記載されています。中間とは、武士に仕えて雑務に従事した人たちのことで、この行為からもわかるように、光秀は命という尊さを重んじ、武士も中間分け隔てなく弔ったのです。お釈迦様の教えの中に「
天上天下唯我独尊 」という言葉がございますが、自分というものは天にも地にも一人した存在しない何ものにも代えられない尊い命であると教えておられます。光秀公も命の尊さを知り、一人一人の命を大切に考えて供養をされたと思われます。昨今では目を覆うような事件・事故が多発しておりますが、もっと、人の命というものの尊さを一人一人が知り、大切にしなければいけないと思います。
6月14日は明智光秀公の命日であり、西教寺におきましては、毎年6月14日に明智光秀公顕彰会による追善法要及び記念講演が開催されております。本年も6月14日水曜日午後1時より、本堂に於いて追善法要、そのあと、研修道場におきまして、午後2時半より、高島幸次氏の講演と、シルバン・ギニアール氏の筑前琵琶演奏が執り行われる予定でございます。来聴につきましては無料となっておりますので、どうぞ皆様御来山をお待ちしております。
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5月28日 滋賀教区 善通寺住職 宗務総長 西村冏紹師
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『宗教のない科学はいびつである』
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皆さん今日は。
明治以降、わが国は欧米文明を取り入れ、先進国家にまで発展してきたことは、大変喜ばしいことです。美食飽食に明け暮れている日本は、餓死者の続出している後進国と比較すれば、雲泥の差であり、まったく勿体ない限りです。これも、逸早く科学研究を採り入れた成果と云えましょう。
しかし、世の中、科学万能だけでよいものでしょうか?
特殊相対性原理を発見したドイツの大物理学者アインシュタイン(1879〜1955)は、科学者でありながら、
『宗教のない科学はいびつである。』と言っています。
つまり、世界の平和・人類の幸福を願う宗教を無視した科学は、地球を滅ぼし、人類に破滅をもたらす核兵器を造るからいびつだと言っているのです。
私はかつて、少誌『心の糧』に次ぎにような文句を掲載しました。それは、
「寄生虫のため 犬が死んだ。
犬が死ねば寄生虫も死ぬ。
無知な寄生虫は愚かな奴だ。
だが待てよ。
地球を滅ぼすような
核兵器を造った人間は、
この寄生虫をあざ笑えるか。」
という文句です。現代の科学者は科学研究に没頭のあまり、核兵器を造ってしまったのです。
書くの平和利用こそ望ましいが、世界各国は核兵器を持つことによって、世界各国のなかで優位に立とうとしています。これは、弱肉強食以外の何ものでもありません。
アインシュタインが言った「宗教のない科学」「いびつのような科学」を放置していてよいものでしょうか?
もっと宗教を採り入れないと、国も地球も滅びてしまいます。科学者や人類の猛反対を熱望する次第です。
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5月 21日 滋賀教区 常照寺住職 滋賀教区支所長 川合歳明師
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『考え深い人間となろう』
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今日では情報化時代で、何事も簡単に知恵を得る時代であります。物を考え深い人と浅はかな人との差が大きいように思われます。情報がすぐに目から耳からと入ってくる。それはじっくりと考えないで、物事に取り掛かる人が多い、物質的欲望を満足する知恵を出して、精神的な充実感を忘れての真の幸福を逃がしている人が多いのであります。
信仰の世界でも何も考えないで、新興宗教のすすめに誘われて入信する、それも真の意義を知らないで、ただ救われるの言葉だけに頼り深く考えないで、入信致します。真の信仰はそんなものではありません。
仏さまの知恵は慈悲の光であります、お釈迦様は6ヵ年に余る苦行の中から私たちに宇宙の真理を教えて下さった、その仏さまの知恵を頂いているのでありますが、その知恵でよく聞きよく見て考え目先の知恵だけでなく、自分の中にあらゆる経験から何事にも心をくだいて深く物事の処理を身心ともに考えていきたいものであります。
金儲けの話が苦労なくあると、その裏を考えないですぐに飛びつく。バラの花をみて美しいと感じて手にする、トゲのあるのを知ってびっくりするようなものだ。
物事には表裏があり、陰陽があるということを知りながら冷静な判断に乏しく深入りして脱出しにくいことを知って後悔するのが世の中です。そのようなことがないように知識だけに溺れず生まれてから今日までに身に付いた知恵で物事を判断して、楽しい人生を送るために考え深い人になろうではありませんか。
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5月7日 福井教区 西楽寺住職 教学部長 武田圓寵師
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『生きとし生けるものの平等』
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今から35年も前の夏、私はロシアのモスクワへ旅行に行ったことがありました。
その旅行中、私はモスクワのあるデパートに買い物に出かけました。多くのモスクワ市民が買い物に来ておりました。そのとき、一人の中年の女性がある売り場でじっと、ショーウィンドーを覗き込んでいる姿を見ました。そして、その姿を見ているとき、突然私はこの女性の家族、家庭を想像しました。家計のやりくりを考えて、欲しいと思っているショーウィンドーの中の品物を、買おうか買わないでおこうか、と悩んでいる様子に見えたのです。
その瞬間、私は国が違っても、人種が違っても、言葉が違っていても、人が生きていくということは、全く同じようなものだな、という不思議な感覚を覚えたことでした。
お釈迦さんは、教えの中で、常に平等ということを説いておられます。この平等の考え方が根底にあるからこそ、生きとし生けるものを常に差別なく、慈悲のまなざしで見ることができるのでしょう。ところが、現代の世の中には、自分さえ良ければよい、他人はどうなっても構わない、という自己中心的、利己的な考えを持つ人がいます。そして、そのような人が多くなれば世の中には悪がはびこっていくでしょう。
そうでなく、一人ひとりが平等の考えを持って、共に生きていこうとすれば、世の中に善が行きわたり住みよい社会になると思います。私たちも、六波羅密のひとつである智慧を以って、この平等の考えを身につけたいものです。
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5月 7日 滋賀教区 常照寺住職 滋賀教区支所長 川合歳明師
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『規律ある生活を喜ぶ人間となろう』
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私たちは、毎日の生活にリズムがあります。健康な毎日であれば日課通りに物事を精進出来ますが、何か身辺に精神的なこと、物心的なことなどに変化が起こりますとそのリズムがくずれます。そのリズムを元通りにするには時間がかかります。家庭に不幸があったり、病気になったりしますと、毎日のリズムが狂ってまいります。毎日の生活規則どおりに進みますと尚更幸せがみなぎって参ります。今日は言論の自由です。自分の意志を表現できます。それ故に幸せと不幸が交錯して参りますが、毎日の新聞を見ておりますと、不幸な事件が沢山起こっています。毎日の生活に喜びがなくて不平不満があるから起こっており、原因を正せば健康な生活に喜びを感じないで私欲に走り、健全な日送りができていません。
今日一日の無事に感謝する気持ちを忘れてはなりません。毎日が平穏で生活の繰り返しで、身体健全であれば幸せが生まれてくるのであります。
「ほとけさまのおしえ」は、人を信じ、施し心をもち、我が命を大切にし、何事にも考え深く、誠実に勇気をもって使命に生き、幸せを喜ぶようにと諭されております。
全国青少年教化協議会の示す仏教の人間像「 ほとけさまのおしえ 」でございました。
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4月 30日 滋賀教区 善通寺住職 宗務総長 西村冏紹師
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『日本が駄目になる』
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皆さん今日は。お元気ですか?
人間には、誰でも「善なる心」と「悪なる心」とが共存しているものです。
仏教では、我々人間は、「煩悩具足の凡夫」といわれるように、「悪なる心」は起こしやすく、「善なる心」は起こしにくいものです。
でも、今からはや11年前になりますが、阪神淡路大震災が起こりましたね。そして5000人近くの犠牲者と数十万人という被災者がでました。すると、どうでしょう、多くの若者をはじめとして百万人ともいわれるボランティアが、「俺でも何かできるのではないか」と駆けつけました。あの時は、老齢の私も「日本の若者も捨てたものじゃないなぁ」と嬉しくなりました。
でも、最近はどうでしょう。毎日、テレビのニュースを聞いてましても、新聞の三面記事を読んでましても、心温まるニュースや、感涙に咽ぶニュースは、見つけ出すのが難しいほど少なく、反対に、殺人や振り込め詐欺・婦女暴行・建築偽装設計・贈収賄・放火等々、忌まわしい犯罪が、我々の身辺に起こり、三面記事を賑わしており、全く遣りきれない気持ちでいっぱいです。
中でも、若者が年寄りや子供など、弱いものに危害を加えるのは許せません。これらの現状を見て、本年94歳で海外でも活躍されている路加病院の理事長で、現役でかくしゃくたる日野原重明先生は、医療面だけでなく、精神面にも気を配られ、「このままでは、日本は駄目になる。大学を卒業したら、すぐ就職するのでなく、国家の方針として、一年間後進国の貧困地区でボランティアをさせてはどうか。そうすることによって、飽食しか知らない青年たちの人生観が変わるのではないか。思いやりの心が生まれるのではないか。」と、おっしゃっています。また、現在日本の哲学者である梅原猛先生も、道徳・宗教や情操教育の必要性を強調されています。
毎日、警護つきで子供を登校させるなんて、こんな情けないことは、一日も早く無くなるようにしたいものです。日本人をして、物に溺れて、心で滅びる民族にしないよう頑張ろうではありませんか。
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4月23日 西教寺社会部主事 中島敬瑞師
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『5月 大般若転読会御案内』
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5月16日に西教寺安養院・聖天堂に於きまして大般若転読会がつとめられます。この大般若転読会とは、正式な名前を「大般若波羅密多経」と言います。今から1300年以上前に中国(唐の国)の三蔵法師玄奘(さんぞうほうしげんじょう)という僧侶が16年の間旅をして天竺(インド)から持ち帰り、その後4年を費やして翻訳(漢訳)したという
小品般若、大品般若、金剛般若、文殊般若、秘密般若、理趣般若など様々な般若部経典の大全集で、その数は何と600巻に至ります。
内容は、「般若波羅密」と訳される「 悟りに至る智慧 」を説く諸経典を集成したもので、「色即是空、空即是色」、一切のの存在はすべて空であるという空間思想を説いているとされています。
この法要は、導師が説草を唱える合間に、大般若経600巻を複数の僧侶で転読(てんどく)し、五穀豊穣、厄除開運、家内安全を祈願するものです。転読とは、経本を一巻一巻正面で広げ流し読むことで、それによって清らかな「般若の風」が起きるとされています。
また、それぞれの僧侶が、一巻一巻「 大般若波羅密多経 巻第○△□、唐の三蔵法師玄奘奉詔訳
」と、大音声で経巻数を唱え、最後に「 降伏一切大魔最勝成就 」と唱え、締めくくります。その意味は、一切の悪い心を取り除き、清浄な人間として完成することを願うとともに、多くの人もまた平和な日々を送ることが出来るようにと祈るものです。
昨今のような煩悩の多い時代には、真盛上人の教えにもありますように、「無欲清浄、専勤念仏」と、欲を出来るだけ捨てて、心を清らかにし、念仏に励むことが大切なのではないでしょうか。特に煩悩妄想という心の塵や垢は放っておくと際限なく心に積もってしまい、人間本来備え持っていた自性清浄心というl、仏の心を曇らせてしまいます。この大般若転読会に御参詣されまして、心の塵、煩悩を取り除かれて、家内安全、厄除開運をお祈りされてはいかがでしょうか。
御参詣お待ちしております。
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4月16日 福井教区 西楽寺住職 教学部長 武田圓寵師
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『実ほど頭を垂れる稲穂かな』
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これは順境の時ほど謙虚であれ、と諭している言葉です。
私たちは、好調の時には自身が努力しがんばったからだと、自分の手柄にし、ことが上手く運ばず逆境になると、他人が悪かったからだと人のせいにしがちであります。
しかし、ことの本質はそのいずれの場合も正しいものではなく、その反対でありましょう。
私たちは毎日多くの縁によって支えられ、生かされています。
その縁がたまたま上手く巡り合い、結び合ったときには、ことが順調に運ばれるのです。逆に縁が上手く巡り合わず、結び合わないときには何事もうまくいかないものです。
そして、その縁を大切にすることによって、その人によい縁が出来、よい縁が繋がっていくのではないでしょうか。
縁を大切にすること、それは自らの心を謙虚にすることです。自らの心を謙虚にすること、これは仏教の忍辱(にんにく)ということにも通じます。
忍辱とは、堪え忍ぶということです。私たちはともすると他人から中傷されると、すぐかっとなってしまいますが、これを怒らないで忍こと、これが忍辱ですが、それには自分の心に慢心があってはできません。謙虚な心があって初めてしのぶことができるでしょう。
そして、この忍辱は、布施・持戒・精進・禅定・智慧とならんで菩薩の道のひとつであります。
でありますから、私たちは常に謙虚な心を持って、忍辱の道を歩んでいきましょう。
自分に対し、怒っている人、悪口を言ってくる人に謙虚な心と寛容の心で接していきましょう。その人に怒りの心や憎しみの心でなく、哀れみの心でみてあげましょう。そうすることが、良いご縁に巡り合うことになるでしょうし、菩薩の道を行なうことでもありましょう。
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4月9日 滋賀教区 常照寺住職 滋賀教区支所長 川合歳明師
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『使命に生きる人間となろう』
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我々は人間であるから正しい考えで行動しているときと、精神的な衝動によって精神不安定の時もある、これらを上手に働かせる理性がなくては一人前の人間ではありません。
今日の世相を静観すると常識以外の事件が多く、最近は低年令の犯罪が多いと云われています。大人が考えることが出来ないところまで来ているという、将来が心配される。ここ十数年前よりみると大学生のうち、ゲバや政治に反発した大学生の犯行が多かった時代もありましたが、また、高校生の校内暴力、中学生の暴力行為、万引き、性犯罪、不良行為が多く補導者が手をやいた。これらは世間みんなの責任であり、暖かい芽でもって導くようになりたいものであります。
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「しあわせな生活を営める人間であれ」という仏の願いの中に生まれてきたことに気が付けば生きていることが尊いのである。縁あって家庭を作り、善友と交わり、共に働くようになって人々と幸せにし、明るくする使命が私たちにある。
この世は持ちつ持たれつであるから、自分の力足りない時は他人に助けられ、自分の良い力は人に利用してもらって勇気のある力で使命に生きる人間となりたいものです。
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4月2日 滋賀教区 常照寺住職 滋賀教区支所長 川合歳明師
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『いのちを大切にする人間となろう』
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私たちの命は一つしかない、二度とない人生だから大切にしたい。このいのちは両親から受け継いだいのちである。いのちを粗末にすつ動物はいないのである。それなのに、今日の情勢は、草や木、鳥や魚よりも劣っている。何の理由もなく、ただ自分の気持ちがクシャクシャするからといって、楽しく道を歩いている親子を衝動的に殺したり、親子の間で口論して親が子供を殺したり子供が親を殺したりする事件が毎日のように新聞に出ているが、この人たちは人間の命をどのように考えているのであろうか。
金がないといって強盗に入り、見つけられて人を殺すようなことをしないでも、コツコツと働けば手に入るし、お互いの命を尊重して生活すればおのずと生きる楽しみが生まれてくる。極悪な殺人犯のいのちを救おうで弁護する弁護士がいる、いのちの尊さを守る上では結構であるが、ただ何人ものいのちを奪ったものが精神錯乱のうえでしたことだからと無罪を主張するのは偏見した弁護であると思う。それよりも原点にかえって人のいのちの尊さを見直すことが必要である。
人は他の動物よりも勝れた知恵をもっているから理性さえあれば、すばらしい世の中を築き上げることができると、仏さまは教えて下さるのです。
お互いがいのちを大切にして明るい社会であることを願って、日々の生活を有意義に送りたいものです。
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3月26日 滋賀教区 盛安寺住職 大窪功真師
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『法華千部会の御案内』
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恒例の春の大法要法華千部会が、来る4月5日から7日まで3日間、総本山西教寺で勤まります。
お釈迦様が最後にお説きになったのが法華経で、天台宗の根本経典のひとつです。「法華千部」というのは、千部千人のたくさんの僧侶が法華経をお唱えして、その功徳によって、国家安泰、家内安全等を祈願する法要で、本山では古来より綿々と受け継がれております。
6日の御中日には、午前10時から祖殿に於て、宗祖真盛上人報恩会が、午後1時からは、本堂において福井教区
別格本山引接寺 八耳哲雄御山主によります特別布教がございます。引続き、仏教婦人会・詠歌講・雅楽・僧侶によります大練供養、並びに世界平和祈願会が光明供法要で、盛大に勤まります。法要期間中は各家の御先祖様の霊名札回向、納骨回向、昨年中に亡くなられた新亡回向、及び子供たちの安全、学業成就祈願を致しております。
参詣者の皆様には、大食堂で食事を御自由に取って頂きますようにご準備を致しております。
どうぞ御家族お揃いで、法華千部会に御参詣下さいますよう お願い方々御案内申し上げます。
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3月19日 滋賀教区 善通寺住職 宗務総長 西村冏紹師
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『お母さんに孝行したい』
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皆さん今日は。お元気ですか?
健康ほど有り難いものはありませんね。ちょっと風邪をひいても、ちょっと足に怪我をしても、それがよくわかりますね。
古人は、そのむかし「身体髪膚、これを父母に受く。敢えて傷せざるは、孝の初めなり。」といいました。私たちの体は両親からいただいたものです。その体に傷をつけないことが「
孝行 」の始まりだというのです。
こんなことを云うと、「何だ、古くさい」と云われる方がおられるかもしれませんね。最近は親を親とも思わぬ人が、増えてきたのは、何故なんでしょう。いや、それどころか、最近親を殺す、子を殺す、という事件が増えてきました。なんという恐ろしいことでしょう。
一方、現在貧困地方のインドの子は、廃品の屑の山によじ登って、金目になる屑を拾って、「お母さんに渡し、親孝行をしたい」という。
日本とインドとのこの差は一体何なんでしょう。敗戦から立ち上がって、世界一の経済成長を成し遂げた日本、物の豊かな日本で、子が親を殺し、後進国のインドで貧困の子が廃品を拾って、自分のものにせず、「お母さんに孝行したい。」という。
こんな大きな隔たりが、今世界に起こっているのです。日本の皆さん、真剣に考えてみて下さい。
戦後の日本は「物に溺れて、心で滅びん」としつつあります。この最大の原因は家庭教育・学校教育・社会教育にあると思います。
「お母さんに、孝行したい」という子供に育てるような家庭教育、「お母さんに、孝行したい」という学校教育を考えようではありませんか。心の豊かな人間つくりを、いまこそ真剣に考えようではありませんか。御仏のお慈悲のもとで生かされていることに、気付いた者のみが、真に心の豊かな人間となりうるのです。
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3月12日 福井教区 西徳寺住職 内藤秀穂師
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『ご縁の話』
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私たちには必ずお父さんとお母さんがいます。私たちは絶対に自分でこの世に生を受けることはありません。また、この父母にもそれぞれ父母があります。そんな計算をしていきますと、自分のたった一つ命がこの世に存在するためには、10代遡っただけでも最低1024の命が直接関わっており、そのどの一つの命が欠けても自分のたった一つの命すら存在しないのです。生きとし生けるものすべてが、そのようにしてこの世に生まれさせて頂くのです。
また自分が生まれた後にも、今度は数多くの数え切れない程の命に助けられて生き続けるのです。もちろん、人間の命だけではありません。生きとし生ける自分の身の回りのすべてに関わり合いを持つ命のお世話によって生き長らえるのであります。
そうした意味合いから言えば、私たちは実は自分が生きているのではなく、すべて生かされているということになります。色々な力の作用によって、生かされているのです。
この自分に関わって下さる色々な作用を私たちはご縁といいますが、またこの私の力ではどうにもならない大きな力、言い替えるならば、自然の営みの中で私に降りかかるすべての力を仏の智慧、「仏智」と言います。
したがって私たちは、このご縁のことを仏縁とも言い表しています。この仏縁に合うことが出来るのは、実は必然ではなく、偶然たまたま私が両親の子としてこの世に命を頂いたお陰なのです。よっぽどのご縁を頂くことが出来た故に、人間としてこの世に生かされて頂くことができるのです。まずそのことに感謝しなければなりません。この感謝の「ありがとうございます」、すなわち、有り難い現実が今ここに出現しています。そのことを感謝するのです。もちろん御仏様に対して感謝をするのです。
そして更にせっかく頂いた人としての命、生かさせて頂いている喜びに対する御恩返しの行動を起こさなければなりません。その行動は常に周りの人に喜んで頂けるような自らの行動を起こすことです。これがこの世の最大の善い行い、すなわち善行です。その為に常に自らの行動を戒め、反省し、その中から次なる行動へのエネルギーをうちに秘めて、身を引き締めた生活を続けることが大切です。
この行動を私達の御開山、真盛上人は「戒」と呼んでおられます。即ち円頓戒のことです。この「戒」と感謝の念仏、即ち仏の名を心に唱える称名とが、表裏一体となる時、私たちはこの世にいながらにして、濁りから抜け出した救われる生き方に到達できるのです。
どうぞ一日を大切にして、意義ある一生をお送り下さい。
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3月 5日 滋賀教区 常照寺住職 滋賀教区支所長 川合歳明師
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『よろこんで与える人間となろう』
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盂蘭盆経というお経の中に有名な物語があります。
お釈迦さまのお弟子に、目連という方がいました。この方を目連尊者と呼んでいます。この目連は心のやさしい人で亡くなった母親のことが忘れられず、いつも養育の恩を感謝していました。ある日、目連はその母が今どこに居るかと神通力をもってたづねてみました。最初は極楽浄土を探しましたが見つからず、次ぎに天上界を見ましたがいませんでした。
そこで、仕方なく恐る恐る地獄の方を見ました。するとその地獄の餓鬼のなかで苦しんでいるのを発見したのです。其の母はやせ衰えた身体にお腹が太鼓のように膨らんで苦しんでおられ、見るからに食物を与えられても消化せずに苦しみ衰えた身体で餓鬼道に落ちて苦しんでいる姿を見たので、神通力をもってその母の餓鬼道に落ちなければならない因縁を知ろうとしました。そこには生前、目連には大変優しい人でしたが、他人にはむごい仕打ちを平気でする人でした。
すべては息子を育てるために、食べさせたいという母性愛の現れに違いないと目連は思いました。
そこで目連は矢も楯もたまらず、鉢に御飯を盛り母のもとへ駆けつけました。母は餓鬼のごとく持参した御飯に飛びつき食べようとすると、たちまち火となって燃え上がり後は炭となってしまいます。目連は大変悲しみお釈迦さまにありのままを告げますとお釈迦さまは言いました。
「七月十五日の「自恣」の日にすべての仏弟子に供養をすることを勧められました。目連はそのとおりにしました。お釈迦さまは目連のために、目連の「七世の父母」のために祈念することを仏弟子に命じ、お釈迦さまのおられる塔に捧げて大勢の仏弟子たちにもご馳走をすると皆大いに喜びました。目連の目にはあざやかに母の姿が浮かびました。母はその功徳によって「餓鬼の苦を脱すること」を得ました。微笑を浮かべて天上界へ昇っていかれたのです。それで父母に孝養の誠を捧げ父母をも救えるだけの解脱を得る自覚を高める日として祖先の祭りをするのが盆であります。
自分だけの力でこの世に生存しているのではなく、あらゆる人々の力に支えられているのである。
お互いに、よろこんで与える人間となろう。
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2月26日 西教寺社会部主事 中島敬瑞師
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『人形供養法楽の御案内』
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三月三日 午前十時より、西教寺本堂におきまして人形供養を勤修致します。
今年もお人形の供養のために全国各地より沢山のお人形が集まってきております。この人形供養は、みなさまが長年ご家庭で一緒に暮らしてこられました色々な思い出のあるお人形の供養をさせて頂く法要です。
近年では、物資が豊富になり、物を大切にしないという傾向がありますが、仏教では、一つ一つすべての物に尊い命、仏性があると考えます。身近にある一つ一つの物を大切に使う、また感謝の気持を込めて大事にする。お人形においても同じことがいえます。一緒に暮らしたお人形、そんなお人形が壊れたり不要になったり自分たちの都合で別れるときが来ます。しかし、人形たちは別れる時まで、私たちと時には遊び相手になったり、悲しいときの励ましになったり、心を穏やかにして貰ったり、私たちを勇気付け、励まし守ってくれたと思います。そのお人形たちを供養し感謝の気持を保つことが大切だと思います。
また、表書院におきましては、2月15日より3月3日までの間、雛人形展を開催致しております。雛人業の始まりは厄除の身代わり人形から始ったと言われており、昔はよい医者や薬が少なくなったので、子供が病気にかかって命をおとすことが非常に多かったと言われております。
特に生産まれたばかりの赤ちゃんは抵抗力がないため、尊い命を落したそうです。だからどの家でも赤ちゃんが産まれると人形を飾って、その赤ちゃんの病気やケガの身代わりになってもらっていたのが始まりだと言われております。
人形展は、古い物では江戸時代のお雛様から、御殿雛、大正雛など、文化的にも価値のある雛人形を多数展示致しており、拝観料は400円になっております。また、人形供養料は3000円からとなっております。予約制の雛御膳も2000円にて御賞味頂けます。
是非この機会に、ご家族お揃いで御参詣頂きますよう御案内申し上げます。
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2月 19日 福井教区 引接寺御山主 八耳哲雄師
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『お釈迦様のお話 成道会について』
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成道会と申しますのは、お釈迦様がお悟りを開かれた日のことで、六年間にわたる自力による難行・苦行を終え、菩提地面に座して、仏陀成道の自覚を得られた十二月八日のことであります。成道とは、人間、釈迦が人間を超越した存在の仏陀になられたことを申します。その悟りとは、世の中はすべて固定したものはなく、すべて縁起によって成り立っているのである、私は今ここに居ることさえ、お陰様という感謝の思いであります。
人は、ただ一人では生きられない、多くの人やものに支えられ、生かされることによって生きているのです。ともすれば私達は自己中心的なエゴイスト、つまり身勝手な利己主義者ではないでしょうか。何事も自分中心に物事を判断しがちであります。その原因は、貪・瞋・癡の三毒、煩悩の働きなのです。
「生かされて いくのや今日の
この命 雨土の恩 限りなき恩 」
「箸とらば 天地自然の恩を知れ
吾 一力で食うと思うな 」
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2月12日 滋賀教区 常照寺住職 滋賀教区支所長 川合歳明師
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『底ぬけに人を信じる人間となろう』
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人間が生きているということ、このことほど不思議なことはありません。また、立派なものだと思います。私たちは自然の大きな力に守られて生きています。世間の人たちはお互いの力を出し合って生活しています。よく私は自分の力で生きていて、他人の力なんか借りていないと口ばしる人を見ますが、これは自分自身の小さな思慮の中に生きている人で、私達が今日生きているのは沢山の人の恵みによって生きているのです。食べるもの、着るもの、住む家など、一人の力では絶対に出来ないのです。沢山の人々の心血の結晶によって生かされているのです。一人として自分の力のみで生きている人はないのです。それを不信に思っていると自分勝手な人間が出来て、人から嫌われ、世間から離脱せざるをえないことになるのです。
私達は少し位の苦労を気にせず、おおらかに、心から人の話を聞き、本を読んだり、折にふれ、縁にふれて、自分の生活を豊かにして、人の面倒をみる人となりたいものです。
底ぬけに人を信じるということは簡単であり、また、むつかしいことです。仏さまは自分の力を世間のために投げ出して、人さまの力を充分にもらって生きる人間を育てたいと念願されています。家内仲良く揃って信仰し、先祖をおまつりして、親をたてての生活をすることが、底ぬけに人を信ずる人間となれるのであります。
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2月 5日 滋賀教区 善通寺御住職 宗務総長 西村冏紹師
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『七十五のパソコン』
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皆さん、今日は。
いまや日本は世界一の高齢化社会になりました。これは喜ばしいことですね。それだけ医学や食糧事情や社会保障等が各国にくらべて、進んでいる証拠といましょう。
ところが一方、これに反して、今まで極めて少なかった難病が出てきて、徐々に増えてきたのは、残念なことです。認知症などがその一例です。これが出ないようにするには、普段から脳をせいぜい使うようにすることだと医学者が指摘されておられます。
私は、今79歳になりましたが、せいぜい脳を使うようにしています。昔から『六十の手習い』という諺がありますが、私は『七十五のパソコン』という諺をつくりました。
七十五歳でパソコン教室に通いました。通っている人たちは、ほとんど10代、20代の若者ばかりでした。そんな中で、頭がピカピカの逆ボタルのような私が机を並べて、孫娘にようなインストラクターに手ほどきをしてもらったのです。はじめは、指先が思うように動かず、判らないことばかりで、質問の手は、上げっぱなしでした。週に1,2回の教室通いで、一ヶ月もすると、だんだんと要領が判り、指先がスムースにに動くようになり、次第に面白くなってきました。
このようにして、今では、手紙や論文も作成できるようになり、パソコンは、日常不可欠のものとなりました。デジカメで写真を撮り、それをパソコンに入れてプリンターで絵葉書をつくり、人にあげると喜ばれます。
何事も『習うより慣れ』です。皆さんも自分に合った趣味を見つけて、脳の活性化に役立てて下さい。それが、認知症への救世主にもなるのです。
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1月29日 伊勢教区 実相寺住職 西山真澄師
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『かけた情けは水に流し、受けた恩は石に刻め』
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人にしてあげた親切や、思いやりはその場で忘れてしまいましょう。反対に人から頂いた親切やご恩は石に刻んででも永く忘れないようにしましょう。
これが、最初に紹介した言葉の意味です。言葉にするのは簡単ですが、いざ実践となると難しいことです。
例えば、情けをかけてあげた人に恩を仇で返された時、自分の心に怒りが生まれませんか?
では、なぜ怒りうまれるのでしょうか。それはその人に情けをかけてあげたということを自分が憶えているからではないでしょうか。
その事を忘れ去っていれば、その怒りは生まれないのです。しかもその怒りは自分にとって何も得るところの無い怒りでしかありません。
さて、逆に私たちは受けている様々なご恩を忘れてはいないでしょうか?
頼みもしないのに多くの恵みを与えていてくれる大自然のご恩には気付いてもいないのではないでしょうか?
何の見返りも求めてはいない自然の恵みとは、言い換えれば仏様の広く大きな、お慈悲そのものであります。
また、目に見えなくとも、私たちをいつも見守っていて下さる御先祖様のご恩。
そんな無償のご恩を私たちは常に無意識の中で受けているのです。
人間が生きていく上において、不可欠な天地自然の恵み、今の自分の存在が御先祖さまあっての事実、なかなか報いることの出来ない、お返しすることの出来ない大きなご恩、せめて、せめて忘れずにいたいものです。
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1月15日 福井教区 西楽寺住職 教学部長 武田圓寵師
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『毎日の生活の中で』
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毎日が何事もなく平凡に過ぎていくときには気づかなかったことが、ある日、何かのきっかけで見えてくることがあります。
先日、大雪のため、JRの列車が運休したことがありました。ちょうどその日、私はJRを利用していかなければならない用事がありました。
なぜその日に限ってJRが不通になるの? 私は自分の運のなさを嘆いたものです。しかし、考えてみれば、私たちは毎日を偶然性の中で過ごしているのではないでしょうか。
そして、たまたま上手くいっていたことが、いかなくなったときにそのことに気づかされ、改めて日常生活の偶然性の積み重ねに思い知らされるものです。
偶然性とは、言葉を変えて言えば、縁起性、依他性ともいえます。縁起性とは、物事はすべてつながりがあり、そのつながりの中で、すべてのことが動いていくということです。 また、依他性とは、ものごとはすべて、自分のまわりのもの、自分以外のものによって動いていくということです。
私たちはこの偶然性、縁起性、依他性を再認識し、小さな自我よりも、大いなる不思議、はからいの中にいかされていることに、思いを深くしたいものです。そして、この大いなる不思議、はからいこそが仏であり、『南無阿弥陀仏』の念仏を唱えて、絶対的な仏に帰依しましょう。
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1月8日 福井教区 引接寺御山主 八耳哲雄師
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『真盛上人二十五霊場第 引接寺御紹介』
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天台という名で始まる御宗派は、三つあります。まず延暦寺を本山とする天台宗と、三井寺・園城寺を本山とする天台寺門宗、及び 我が西教寺を本山とする天台真盛宗の三宗派であります。
さて、西教寺は天台密教の寺であり、特に重視しているのは、念仏と戒律であります。開祖真盛上人は、衆生救済には念仏が最もよい教えだと信じ、合わせて厳しく戒律を守るようお奨めになったのです。上人は貞享二年(1488)の夏、信濃の善光寺に詣で、帰路を北陸にもとめて越前に入ったのは、その年、四十六歳の秋でした。
越前総社に詣ずるや、神馬もきたり跪き、十念受くるぞ 有り難き
この様子は一気に噂となって広まり、時の守護職朝倉貞影の耳に入り、直ちに一乗寺谷に招聘され、その一族に説法を重ね、また円鈍戒を授けることとなったのです。ご縁いよいよ深まり、貞影の弟
影孝が出家入門、真慶と号して 上人の直弟子となりました。真慶は朝倉公の念じ仏、十一面観世音菩薩を拝して入山し、三十三年目毎にこの観音さまの御開帳が行なわれ、去る平成十四年秋彼岸一週間にわたり勤修されました。それを縁として真盛上人、四十六歳で越前を訪ねた行脚の尊像が引接寺本堂前に建立されたのであります。
今日の乱れた世相こそ、上人の教えの鍵の重要性を思うとき、幼児にもわかる戒律を徹底するべく、今回上人像とその教えをライトアップにより、昼夜に渡り教化活動を試みたのであります。
引接寺は、真盛上人二十五霊場第十番の札所であります。
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1月1日 滋賀教区 善通寺住職 宗務総長 西村冏紹師
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『新年とテレホン法話開始を迎えて』
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皆さん、平成18年の新年を迎え、おめでとうございます。
当天台真盛宗総本山におきましては、本年よりテレホン法話を開始させていただきました。
この企画はですね、宗祖真盛上人は、世のため、人のために、心を配られた思いやりのある天性無欲の聖と呼ばれ、あがめられた上人で、説法の法座やお授戒の場に、病気や仕事等のために、来られない人々のために「お十念」や「十戒」をしたためて贈られました。
その故事にヒントを得て、開始させていただいたものであります。
宗祖真盛上人の比叡山での修行時代は、大飢饉のため、京都では8万2千人の餓死者が出たり、あの有名な「応仁の乱」によって、京の都が廃墟と化したり、空前絶後の悲惨な状況・悲惨な時代であったのです。そのため、国家の安穏や庶民の幸福を願う修行僧真盛にとっては、黙って見過ごすわけにはいかず、叡山黒谷に篭り、そこから、社会教化の実践活動へと、京の都へ繰り出されたのであります。
上人は、乱世の最大の原因は、人間の欲心にありと捉えられ、世間にはびこる不正や悪の排除に努められました。武将に対しては「兵杖(武力・権力)を以て、国を治むるにあらず。慈悲憲法をもって之を治むるなり。」と、説法されました。それが「無欲清浄・専勤念仏」の教えであり、現代風に云えば「手を合わせ、心を正し、お念仏」であります。
皆さん、現代も、いま憂慮すべき世相が展開しています。
人間の欲心がある限り、永遠不滅の上人の教えをもって、世の中を明るく住みよいものにしていこうではありませんか。
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