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ユースホステル協会
     
テ レ ホ ン 法 話
 
当宗門の住職に毎週お話いただいております。
是非お聴き下さい。
( TEL 077-579-0874 )


   
7月22日 福井教区 長運寺住職 芦田眞光師

『生かされて念仏する』

  皆様、毎日いかがお過ごしでしょうか。私も、この由緒ある天台真盛宗の僧侶として、御開祖 真盛上人のお言葉を一字一句かみしめながら、毎日を送らせていただいております。
  ところで、真盛上人のお言葉の中で、「我らが如き一類を道心門(どうしんもん)と名付く。期(ご)する所は一得永不失(いっとくようふしつ)の戒。憑(たの)む所は弥陀兆載劫(みだちょうさいごう)の願」とお述べになっておられます。その意味は、「道心を以て佛の戒を守り、阿弥陀様の本願、つまり尊いお慈悲を信じてお念仏を申しなさい」ということです。ここに出てくる道心とは、自分を忘れて他人に心から接するということで、一見消極的なようではありますが、他を押しのけて自分だけを押し出せば、争いの元になります。
  この『道心』の理念の中、比叡山で修行された方はたくさんおられ、全国各地で教えを広められました。
  また、ひたすら比叡山で修行され、偉大な業績を残された恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)という偉いお坊さんがおられ、『往生要集(おうじょうようしゅう)』という道しるべを掲げられたことにより、佛教が山から里へ、智者から一般大衆へと、救いの道が開かれたわけです。真盛上人は四十歳でお母様の死に遭遇することにより、この『往生要集』の肝要な所を把握され生死の一大事を探求されました。「戒」は人々を救うための原則、「称」つまりお念仏は戒の原則を具体化したもので、この「戒」と「称」を車の両輪の如く修めることが重要だとご指摘になられました。我々の中にある仏性は育てる、煩悩は努めて抑えることです。
  南無阿弥陀仏は、永遠の生命(いのち)を与えてくださる尊いお慈悲の結晶です。真盛上人は、仏法の中から『 戒称二門 』を選び出され、我々に絶対間違わない道をお教えになられました。「戒」という自力のプロペラと、「称」という他力のプロペラ、この二つのプロペラを回すことで、極楽行きの飛行機が舞い上がるわけです。
この尊い教えに深く感謝し、お念仏を相続していただくことにより、幸せで明るい社会生活を築いて頂きますよう、心からお勧めいたします。

合掌。


7月8日 伊賀教区 千本寺住職 梅田聖丸師

『観音さまのお功徳』

  観音さまの本当のお名前は観世音菩薩であります。観音さまはやさしく、すべての苦しみや悩みを救って下さる、お釈迦様が「 生きとし生けるものはみんな吾が子なり 」と申された大きないつくしみの大慈悲心のお母さんの仏さまです。それで私たちが「 お母さん助けてちょうだい 」と呼べば、その念ずる心の中に現われて、すべての人を救って下さいお母さんなのです。それを歌ってみましょう。

 「 観音さまはおやさしい
  いつ来て見てもおがんでも
  母さまのように思います
  観音さまはありがたい
  世のため人につくすとき
  現われたもう仏さま 」  なのです。

  観音さまは、赤ちゃんが泣けばすぐに来て下さいお母さんのように観音さまを念ずれば、私たちを救って下さる、またの名を「 施無畏菩薩(せむいぼさつ)」とも申し上げるのです。すべての人々の恐れおののく心を救って下さる仏さまなのです。
  「 妙法蓮華経観世音菩薩普門品偈 」はすべての人が恐怖や苦しみや悩みから救われる観音さまのいつくしみの教えであります。
  お釈迦さまが、「人はみんな吾が子である 」と申されたお心の御化身が観音菩薩となって現われ下さったのです。そのお姿は尊く美しく、そのお声ははてしない愛のお言葉なのです。もしあなたがすべての人を愛する観音さまの心を行うならば、それこそどこにでも、広い深い海のように、そして不思議にも永遠に、千億もの沢山の仏さまが、この大きな清浄の願いの菩薩心を発されることを説法されておるのです。あなたの小さな善行も、池の中に石を投げれば、その波紋が全世界に広がるのです。その長い観音経を、だれにもわかりやすく説き、観音さまの慈悲心を心に念ずれば、もろもろの苦しみは滅し、もし災難がおき、大火の中に落ちても、観音さまの力を念ずると、火の穴は池に変わってしまうのです。或いは大海に迷って漂流し、サメに襲われても、「観音さま、助けて下さい」と念ずれば、波はおさまり静って恐い魚も去って行きます。道元禅師が中国からお帰りになるとき台風で船が木の葉のようにゆれましたが、観音経をお唱えになったら台風が去って無事に帰られたとのこと、今、一枚の葉の上に乗られている一葉観音さまが永平寺に祀られています。或いはヒマラヤのような高い山に登って遭難しようになっても観音さまを念ずれば太陽のように空に上って救われます。もし悪人に追われ金剛山から落ち、大怪我をしようになっても観音さまを念ずれば、毛ほどの傷もなく助かり、たとえ怨み憎む賊に取り囲まれ、今にも刀で殺害されそうになっても、相手が慈愛の心を起こして殺されなくなるのです。このような「念彼観音力」が苦難災難から救って下さることが、次から次へと観音さまの妙智力がたたえられています。



5月20日 滋賀教区 戒光寺住職 中島成郎師

『生命の法則と因果について』

  この宇宙には、自然界を創っている眼に見えない大きな法則があります。その法則があるが故に太古以来から天体の運行、季節の変化、水の循環、空気の流れ等が一定の規則に従って順調に行われております。
  人間はもとより草木や動物や獣、虫、魚の類までが生きる為の複雑な本能の働き等は、眼に見えない法則のお陰なのであり、万物はこの眼に見えない霊的な発現によって創られているのです。
人間の幸福は常に全ての人と共に栄える様に努力しながら自分も栄える、この様な法則に従って生活する人は、貧窮に墜ちずに生活の自由を得るのであります。病気になるのを少なくして肉体の自由を得るのであり、心の悩みを少なくして、精神の自由を得るのが私達の願いでもあります。
私達の世界は大生命の法則の元に有り、如何なる場合にも善因善果、悪因悪果の世界なのであります。必ず一切の不幸や病気、心の悩み等はみんな生命の法則、言い換えれば自他共に栄える道に背いたのが原因で起こっており、従ってそこを反省し改めれば当然、繁栄も幸福も生まれて来るのであります。善意をもって生きることが大切なのです。
  悲しいかな、現代の私達は科学、物欲、金権等こそが万能と錯覚し、時に我痴すなわち真理に逆らい、物事の判断を誤り間違った考え方をして、自らが苦悩や不運を招いております。又、我見、凡ての事を自分の都合のよい様に見たり考えたりする事が多く、とにかく他人と意見の調和を欠くが故に、不平不満が起こり、それが争いの元となっております。
  絶望無き希望を抱いたり、挫折無き成功をもくろんだり、文化の追求に飽く無き意欲をもやしたりする事に気をとられ命の尊さ等、さらさら忘れ去ってしまっているのではないでしょうか?
  これこそ仏様並びに先住、先祖様に対して申し訳ない事であるばかりか、何時の日にかはこれが自分自身の人生に大きなマイナス要因となり、思いもかけぬ不幸を招く原因となってしまうものです。
  今こそ私達は大いに反省し、もっと自然の中に生きる様に努力しなければいけないのです。そして、偶然があると思わない事、今日は昨日の続きであって、明日は今日の続きでもあります。
今ある境遇、そして、将来の境遇には何一つの偶然もありません。みな原因あっての結果があるので、それ故に毎日の心がけが大切なのではないでしょうか? 無欲清浄にて先祖供養、墓参り等、日々反省と感謝の気持ちでありたいものです。



5月13日 滋賀教区 大仙寺住職 土永冏順師

『規律ある生活を送ろう』

  稲の苗がビニールハウスの育苗箱で青々と育っています。心地よい季節が到来し、間もなく田植のシーズンであることを教えてくれています。
  我々人間も自然の恵みとリズムの中で、日々の生活を営んでいます。人の幸せは、子供に恵まれても、お金があっても、長生きしても、それだけでは得られません。規律がなければ幸せではないのです。
  朝、にわとりの声と日の光で目覚めて、顔を洗い、仏壇に手を合せ、新聞に目を通す所から一日が始ります。家族揃って朝餉を済ませたら、それぞれの勤めや学校、野良仕事に向います。夕刻、家族が帰ってきたら、「お帰り」と無事をねぎらい、団欒の時を過ごして、子供と年寄りから床につきます。規律あるごく平凡な生活をしている家族の姿です。
  ところが、核家族や年寄りだけの所帯になりますと、それぞれの気ままが生じ、他人への思い違いが欠落して、規律を損なった生活を送る人が出てきます。
  朝いくら起こされても起きて来ない。顔も洗わず、髭もそらず、不精なままで朝餉の席につくようですと、長年連れ添った細君にも嫌われることになります。昼寝を始めたら、太陽が傾くまで うつらうつらしている。そうなると、身体も変調をきたします。昼寝は三十分までが適当なのだそうです。人間は寝だめができない仕組みになっているようです。
不精な生活を離れて、身体も心も健全で健康な状態を保ち、きびきびとした生活を送ることが規律ある人の姿なのです。

  正しい生活のリズムがありますと、自然に喜びと感謝の心が芽生えるのではないでしょうか
  規律ある幸せを喜ぶ人間でありたいものです。



5月6日 滋賀教区 観音寺住職 篠原信成師

『より豊かな明日を求めて』

  さて、今日もお陰様で無事に此の日を迎えさせて頂くことが出来ました。授かりし限りある己がいのちを大切に、恵みの中に生かされた一人一人であることを喜び、お互いに、敬愛と和合の心で、さらにより豊かな明日を向える為に、心静かに仏のみ声に耳をかたむけましょう。等しく仏様を信奉する仏教徒として、より豊かに生きる生活の術として、己が心を安らげてくれる聖句、それを聞くことにより大いに反省し、懺悔し、また魂を鼓舞するような、素晴らしい言葉を耳にし、目にすることは私共凡夫にとっては大変大切なことと思います。
  ところで、私が大好きな言葉として、また仏様のみ教えを、わかり易く説いた寸言法語(すんげんほうご)として次の言葉があります。『われ我わし我を捨てれば楽になる』 喧嘩、諍(いさか)いは我を通そうとするからであります。立場を換えて、相手の立場に立って我を捨てれば安楽の世界が開かれます。とらわれを離れ、執着のない、無執着の世界に遊びたいものであります。
次ぎに『人は去っても、その人のぬくもりは去らない』。人それぞれに、その人なりの独特の雰囲気、独特の色があります。昔から十人十色とも言われています。今別れたばかりの人に、言い知れぬほのぼのとしたぬくもりを感じる、そんな人に出会うと、一日がとても楽しいものとなり、また出合いたくもなります。さて、ぬくもりを感じさせる人とは、仏様のような慈しみ深く、慈悲心に満ちた、その人がそばに居てくれるだけで温かい感じを与えてくれる人だと思います。そんな人になりたいものでございます。

  3つ目には 『一日をつくした人には、一日は美しい』。今日一日の私は、己れを忘れて、他人様にどれだけのことをつくさせて頂いたことだろうか。利他行、即ち、つくす行いを、つくして貰うことより、より大切にしたいものでございます。
  最後に『 仏法者は、人に負けるのでなく、仏様に負けるのだから喜んで負けられる。』 仏様を相手とするくらしには、負けることを喜べる世界が開かれてくるのでございます。より大きな広い心、寛容の心、底ぬけに人を許していける、そんな人になりたいものであります。今日は、己れの今日一日をふり返る縁(よすが)として、私自身一日に一度は口にする寸言法語を紹介させて頂きました。日々、仏の道に反れぬよう、喜びの中に、より豊かな明日を求めて、精進する心を持ち続けたいものでございます。
  お聞き下さり有難うございました。あなた様にみ仏の御加護あらんことをお祈りいたします。 合掌



4月 8日 福井教区 引接寺御山主 八耳哲雄師

『せめて夕食は家庭そろっていただきましょう』


  最近、家族共々朝食・昼食・夕食と三度の食事を一緒に頂いている家庭は如何程あるのでしょう。朝などは特にバラバラで、お父さんは勤めの為、早く済ませ、お爺さんなどはなかなか出てこない。子供たちは、学校の都合で適当にパンか何かで済ませて、「 ごちそうさま 」も「 いただきます 」もご挨拶はそこそこに走っていきます。お昼はなおさらバラバラで、せめて夕食は家族揃って一緒に 「 いただきます 」と挨拶を頂きたいものです。
  人間は、一人では生きられないのです。多くの人や、ものによって支えられ、生かされているのです。魚も野菜も、お膳の上の品々は、みな命のあるものばかりです。その命を、すべて頂いて生きさせて頂いていることを忘れてはなりません。「 いただきます 」とは、そのいずれの命をも「 頂かせていただきます 」と喜びと感謝を捧げる意味であります。
  『 生かされて生くるや今日のこの生命(いのち) 天地(あめつち)の恩限りなき恩 』。父母の恩、師匠の恩、天地自然の恩、社会衆生の恩、それをまとめて四恩と申します。『 箸とらば、天地自然の恩を知れ、われ一力で食うと思うな 』とも謳われております。
  福井では、「 楽しみは 」を頭にした、橘曙にちなんだ歌が、毎年募集されて、なかなか盛況になっていますが、その曙の歌の中に、『 楽しみは 妻とむつまじくうちとけて 頭並べてものを喰うとき 』の一句があります。
  頭並べて、ものを食うのを楽しいと謳っているのではなく、『 ものを食うとき 』の、そのときを楽しいとよんでいるのです。
  家族一同が、頭並べてみんなが共々に一つのテーブルを囲んで、一日の出来事を話し合って、笑いあり涙ありの団欒の姿が窺われるのです。
  せめて夕食はそのようにありたいものです。その時、親は親らしきアドバイスを行ない、我が家の今日までの在り方を、少しずつ話す中に、家庭教育として躾が行なわれるのです。御先祖様の話や、近隣の歴史を話すことによって、命の大切さを身につけることになり、自分で命を落したり、人をあやめたりしてはならない人間道徳・生活信条が、子どもなりに気がつくことと思います。是非一日一度は、家庭団欒の時を持つように致しましょう。


3月18日 滋賀教区 盛安寺住職 大窪功真師

『法華千部会御案内』

恒例の春の大法要、法華千部会が、来る4月5日から7日まで、総本山西教寺で勤まります。
お釈迦様が最後にお説きになられたのが「 法華経 」で、天台宗の根本経典の一つです。「 法華経 」というのは、千部千人のたくさんの僧侶が「 法華経 」をお唱えして、その功徳によって、国家安泰・家内安全等を祈願する法要で、本山で古来より綿々と受け継がれております。
6日のお中日には、午前10時から祖殿において宗祖真盛上人報恩会が。
午後1時からは本堂において、伊勢教区延命寺住職小泉秀善師によります特別布教がございます。引き続き、仏教婦人会・詠歌講・雅楽・僧侶によります大練り供養、並びに「 世界平和祈願会 」が光明供法要で盛大に勤まります。
法要期間中は、各家の御先祖さまの霊名札回向、納骨回向、昨年中に亡くなられた新亡回向、および子どもたちの安全・学業成就を致しております。
参詣者の皆様には、大食堂で御食事を御自由にとっていただけますように、準備をいたしております。
どうぞ御家族皆様おそろいで、「 本山法華千部会 」に御参詣下さいますようお願いかたがた御案内申し上げます。


3月11日 福井教区 西徳寺住職 内藤秀穂師

『万物の「いのち」に感謝の日々』

  地球という惑星ができたのは、それこそ、太古の大昔ですが、その地球上で最初に「生命」が出現したのは、想像ですが、おおよそ、40億年ほど前のことと考えられています。
  地球の地殻変動やさまざまな環境の変化によって、原始の地球の海底で、他の星からの影響などを受けながら、何かどろどろっとしたものが出来上がり、これにある不思議な力が加わって「生命」と呼ばれるものが出来上がったといわれております。
  そして、これが、固体として存在するようになったものが「生き物」ですが、おそらく、一つの細胞と呼ばれる小さな形をした塊が「生命」を得て、生活をするようになったのが、この世の「生物体」の始まりでしょう。それから、約40億年のときの流れの中で、「親」と称する元の生物体から受け継がれた新しい「生命」を持つ「子」といわれる「生物体」が次から次へとその形質を伝えて今日に至ったわけですが、その間、何の変化もなければ、親と瓜二つの子ができ、その形質にある変異が起こったために親とは違った形の「生き物」が出来上がり、こうした変化が繰り返されるうちに、いわゆる、「種」といわれる「同一の生物体群」が絶えて、新しい「種」が誕生し、今日のような哺乳類、そして、霊長類、さらに「ヒト」という生物が出来上がったと思われています。
  この間の流れをよく観察しますと、そこに、万物共通の要因が見て取れます。これがいわゆる「DNA」です。
  したがって、我々「生物体」は、すべて同じ「DNA」で出来上がっており、この「DNA」に何らかの我々の理解しがたい力が加わって、その順列組み合わせが幾通りもできて、いろいろの生物体となり、また、一つの生き物の固体の中でも、例えば鼻が出来、目が出来、口が出来、手や足が出来るといったように、それぞれ、仕事が分化された、全体として調和の取れた生きるためにまとまった行動をとる固体、すなわち「生命体」が出来上がっているのです。
  なんとも不思議な力を、ある学者は「サムシング・グレイト」と呼んでおられます。私は以前から、仏教の勉強をする中で、お釈迦様が二千数百年前に予言された 「この世のすべてのものを、これ以上割れないほど細かく切り刻んでいくと、一つの共通する要素に到着する。これを『微塵』というのだ。」と、いわれた言葉に不思議な力を感じておりましたが、この『微塵』こそが、今日騒いでいる「DNA」本体であり、これらを結びつける不思議な力を「仏力」といい、その出会いを「仏縁」というのであろうと思っておりました。すなわち「サムシング・グレイト」とは、「仏様の力・仏様そのもの」なのです。
  とするならば、我々「生きとし生けるもの」は、皆同一の先祖を持ち、お互いに親戚というのか、同族のものたちである、との認識が可能になります。
  したがって、お釈迦様がおっしゃる十悪の第一に挙げられている「殺生」とは、自分の仲間、自分の身内を殺し合うことになりますので、こんな罪深いことはありません。他人の「いのち」も自分の「いのち」も皆同じように大切なものです。
  しかも、この自分の「いのち」は、この世に一つしかなく、作り変えることも、置き換えることも出来ない尊いものです。
  私はいつも、皆さんに申し上げているのでが、この自分の「いのち」は、実は「自分のものでない」のです。先程来お話ししてきた「生命」の起源の流れを考えれば、すべて親からの預かりものです。他人から預かったものは、大切にして、自分勝手に処分してはいけないのと同じで、いつまでも自分の「いのち」は「他からの預かりもの」だと思って大切にしましょう。
  もちろん、他人の「いのち」も当然です。
  今日の荒れた世相を思うにつけ、もっともっとヒトはすべて、この「いのち」を有効に使うために、全力投球で自分の人生を上手に運転していかなければならないと思うのです。
  これこそが我が宗祖真盛上人慈摂大師のみ教えである。お念仏を唱えるという意味の「称」、すなわち仏様に感謝すること。と、自分を戒めるという意味の「戒」、すなわち自分を振り返りながら、全力投球で生きる、という、つまり「戒称二門」のみ教えに他ならないのものと存じます。
  どうぞ、いつでも、いつでもご自分の人生を大切になさって、お過ごし下さい。


3月4日 福井教区 引接寺御山主 八耳哲雄師

『人に生まれるのはのは当たり前ではない』

  私は、平成15年7月末に、不整脈による脳梗塞の発作が起きまして、それも夜9時半頃、寝床の上で頭を枕に置いた直後でした。天井がまうやら、むかつきが起きるやらいかんとも致し方なく、お便所へと思ったけど、ベッドから下りようとすれば手が駄目。足が駄目。誰もいないけど、声を出そうとしても、それも駄目。口・手・足共にまったく不能です。
    仕方なくベッドから滑り落ちて、肘で畳の上を泳ぐようにして、ようやくトイレへ。電気をつけようとしても、手足が駄目やからつけようがない。まずトイレで一吐きして、誰かに知らさないと思い、電話まで近づいたが番号も分からない。懐中電灯をとって電話帳を出し、とにかく何時も世話をしておじさん宅へ電話をして、「引接寺やけど、もうあかんわ。ちょっと・・・」まで言って、受話器を置いたのか、落したのか、その場所で倒れておりましたら、まもなく救急車のサイレン。「こんな遅くにまた自動車事故やろか?」と思ったのですが、自分の乗っている救急車の音でした。
   気が付いたのは、その翌日の朝、病院のベッドの上です。何がなんだかさっぱり分からず、左胸にはペースメーカーとかが入っています。以来、丸二年、寝たまま、ぼちぼち生麦生米生卵等、口のリハビリ、手足のリハビリを続けて、三年目頃よりちょっと物が言えるように、杖を頼りに歩かして頂き、十九年正月より、ようやくお寺の行事も出来、歩行もぼちぼち、京都大津までもJRで出かけられるようになりました。
   主治医曰く、「貴方は倒れてから、医者の手までが二時間程早かったから、今日そのように回復できたのですよ。もし夕方でそのまま翌日まで家で倒れたままやと、そのまま寝たきりで昔の中風ですよ。」と聞かされました。
   まずこのお話をして、皆様も予告なしに発作を起こしたら、すぐに病院なり、近代的医学のお世話になって下さい。それを申し上げることが、私の体験上から一人でも多くの回復者が出て欲しいからです。
   そこで、入院中に手当たり次第に書物を開けました。開けたところ、『ひとの生をうくるは難し』と書いてありました。「 何故なんや、両親とも人であるから、人に生まれて当たり前やないか 」と思いましたが、さにあらず、人間は生涯の生きざまによって地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上界の六つの迷いの世界に振り分けられるのです。そこで人に生まれることが出来たのは、御先祖様に、正しい生きざまの先祖様がおられたから、私は「 人の生 」を受けることが出来たのです。これを六道輪廻と申します。
   パラパラと次のページを開けたところに「 やがて死すべきものの、いま生命あるは難しい 」とあり、難しいとは、難儀の難ですね。私は平成十五年七月に死んでいたはずなのに、いま生命があるのですから、難の上に有るという字を並べると、「 いま生命あるは、有り難し。」ということです。
   有り難いとは、有ることが難しいのに、その難しい生命があるから有り難いということになりますね。お釈迦様は「 諸法は因縁より生じ、生あるのは必ず滅す。」と申されています。短い言葉ですが、お釈迦様の教育目標です。「この世のすべて因縁によって結ばれております。そして形あるものは、すべてなくなります。」と申されているのです。
   それなのに今ここに、お互い生命有るとは有り難いことであります。その得難い尊い命を大事に、大切にしなければなりません。いわんや人の命をあやめたり、自分の命をなくしたりする事は自分自身で地獄に落ちていくことになるのです。
   この頃は大事なことを忘れています。それは戒を保ち、念仏を喜ぶことです。戒とは、社会通念の道徳であり、仏教徒として無益な殺傷をしない、盗みをしない、嘘・偽りを言わない、深酒・大酒を飲まない等の日常生活信条を実践して、安らかな暮らしのよりどころを求めるのが、今世後世を通じて、私たちの最終目標であります。


2月25日 福井教区 西楽寺住職 教学部長 武田圓寵師

『お念仏』

  何気なく聞こえてきた電車の中でも乗客の会話です。二人の年配の女性が話をしていて、そのうちの一人が「結局、早い者勝ち、というか、先に逝ったほうが勝ちね。」と言いました。何でそれが勝ちになるんだろう、と興味半分で聞き耳を立てると、どうも、老後のあり方のようです。その女性は、夫を長い間介護して見送った。そして寂しさと少しの安堵感の中で気が付いてみれば、自分は独りぼっちになり、介護をしてくれる人もいない。こんなことなら、自分が夫よりも先に無くなった方がましだ、という言い方のようです。だから、夫よりも早く逝ったほうが勝ちだ、と言いたかったのでしょう。
  長寿社会になって、長生きできること自体は、喜ばしいことでありますが、かならずしも良いことばかりではありません。長年連れ添ってきた伴侶に先立たれる寂しさや、誰が自分の介護をしてくれるのだろうという不安を抱えて生きていかなければならないのです。
このように孤独と不安の長い人生を安らかに過ごすには、今こそ信仰が必要ではないでしょうか。そして、その信仰とは、阿弥陀仏を信ずるということでしょう。

 「親思う心に勝る親心  今日の訪れ何と聞くらん」

これは、幕末の志士、吉田松陰が安政の大獄で処刑されたときの辞世の句です。親を思う子供の心よりも、親はその何倍も子供を思うものであります。私たちも阿弥陀仏を信じるとき、その信じる心の何倍もの慈悲の心で阿弥陀仏は私たちを思ってくださるのです。
  大事な人に次々と先立たれ老いて行く、その孤独と不安な気持ちがいよいよ強くなるとき、わたしたちは、阿弥陀仏が大きな慈悲の心でもって私たちを思ってくださいのだ、ということを得心して、南無阿弥陀仏のお念仏を励みたいものです。
  そうすれば、どんなときでも、どこでも、私たちは阿弥陀仏の光の中におさめられているのですから、一人ではない、孤独ではない、という安心(あんじん)を頂けるのです。


2月18日 福井教区 別格本山 引接寺御山主 八耳哲雄師

『我が宗の教え』

天台宗には、比叡山上の延暦寺を本山とする 天台宗、西国三十三所の第十四番札所 三井寺(園城寺)を本山とする天田寺門宗と、聖徳太子の建立といわれている比叡山麓の西教寺を総本山とする天台真盛宗の三宗があります。
 
我が天台真盛宗の開祖は、伊勢の国、津市一志町大仰御出身の円戒国師慈摂大師真盛上人であります。上人は特に戒を保ち、念仏を喜ぶように説かれています。

  戒とは、社会通念の道徳であり、人間としての日常生活に行なってはならないことをしっかり守り、安らかな暮らしのよりどころを求めるのが、今世後世を通じて私達の最終目標であります。
  生活信条の主なものとしては、まず無益な殺生をしない。盗みをしない。男女の道を乱さない。嘘・偽りを言わない。大酒深酒をしない。この信条を、自発的に真面目にしっかり守ることが、戒を保つことであります。
  近年、定年などで職場を退いて家庭に入り、目標を見失って亡くなったり、子供たちがいじめを苦にして自殺するなど、この得難い生命を自分でなくしたり、又は人の生命をむやみに取ったりするのは、人間としての社会通念を見失った結果であります。老若男女を問わず、幼い頃より、ことの善悪について厳しく躾けることが肝要であります。そのためには、親達・大人達がしっかり生活信条を守らなくてはなりません。結果として、日々か安らかで、喜びと感謝の暮らしを送ることができます。  戒を保ち、お念仏を喜ぶことが、現代の世相に一番大切な実践項目であります。



2月 4日 西教寺社会部主事 中島敬瑞師

『涅槃会について』

当山では、お釈迦様の入滅涅槃の2月15日に、その最後のお姿、涅槃図をかけて法要を営みます。  涅槃会は、日本では2月15日に行なわれますが、南方の国では5月の満月の日に行なわれます、お釈迦様は紀元前383年、80歳で亡くなりました。ヒマラヌヤヴァティー河の岸辺にある沙羅双樹の林で頭を北にし、右脇を下にした形で亡くなりました。
臨終にあたって残した言葉は次のように言い伝えられています。
まず、集まった弟子たちに、今まで説いた事について疑問があれば質問をするようにいいました。弟子たちは皆だまっていました。するとお釈迦様は、「 あらゆるものは、うつろいやすいものである。怠ることなく精進せよ」。これが最後の言葉でした。また、涅槃はお釈迦様の究極的な救いの境地を表わす言葉です。迷いが吹き消された状態、あらゆる煩悩が吹き消され静められた状態を涅槃といいます。こころの障害、心の汚れ、むさぼり、いかり、愚痴などを消滅することにより、究極的な安心の境地「涅槃」へと近づきます。
是非、この2月15日11時より行ないます涅槃会にお詣り頂き、こころの障害、心の汚れ、むさぼり、いかり、愚痴などを消滅し、新しい明日に向けて心を養われては、いかがでしょうか?
御参詣お待ちしております。


1月28日 滋賀教区 善通寺住職 宗務総長 西村冏紹師

『慈悲のこころ』

皆さん、今日は。お元気ですか?
最近は、どうも自己主張や権利ばかりを主張する人が多くなり、他人を思いやる心が薄れてきたのは残念なことです。これでは、人間関係が円滑にいかないものです。
仏教では慈悲の教えを強く説きます。法華経序品第一にも 「 慈をもって身を修む 」とあります。慈しみの心をもつことが自己修養になるわけです。
慈悲とは、世間一般では「 いつくしむ 」とか、「 あわれむ 」とかいいますが、仏教ではさらに詳しく、「 慈 」とは「楽を与える」、 「 悲 」とは「 苦・苦しみを抜く」と説きます。つまり、人々の苦しみを取り除いて、楽しみを与えることです。
伝教大師も 「己を忘れて他を利するは、慈悲の極みなり」 とおっしゃっています。
わが宗祖真盛上人も、応仁の大乱によって、廃墟に近い京の都や、大飢饉で餓死者の続出した庶民を救う為に、決死の覚悟で、単身比叡山を下り、足利義政将軍をはじめとする為政者たちに、「兵杖を以って国を治むるにあらず、慈悲憲法を以って之を治むるなり。」と、武力権力で国を治めるのでなく、慈悲の心をもって国を治めていただきたいと訴えられました。
このように、身命をなげうって、自己を忘れて、人々の苦しみを抜き、楽しみを与える。それが世のため、人のためになって、ひいては、お互いに幸せで平和な社会になっていくのであります。それがそのまま、ひいては共生の世界へと展開していくのであります。
どうか皆さん。掛け替えのない尊い命が粗末にされている今日、慈悲の心が満ち溢れているような社会の建設をめざして頑張ろうではありませんか。


1月21日 西教寺社会部主事 中島敬瑞師

『人形供養御案内』

本年も西教寺本堂におきまして人形供養を勤修致します。今年もお人形の供養のために全国各地より沢山のお人形が集まってきております。この人形供養は、みなさまが長年ご家庭で一緒に暮らしてこられました色々な思い出のあるお人形の供養をさせて頂く法要です。近年では、物資が豊富になり、物を大切にしないという傾向がありますが、仏教では、一つ一つすべての物に尊い命、仏性があると考えます。身近にある一つ一つの物を大切に使う、また感謝の気持を込めて大事にする。お人形においても同じことがいえます。一緒に暮らしたお人形、そんなお人形が壊れたり不要になったり自分たちの都合で別れるときが来ます。しかし、人形たちは別れる時まで、私たちと時には遊び相手になったり、悲しいときの励ましになったり、心を穏やかにして貰ったり、私たちを勇気付け、励まし守ってくれたと思います。そのお人形たちを供養し感謝の気持を保つことが大切だと思います。
また、表書院におきましては、2月15日より3月3日までの間、雛人形展を開催致しております。雛人業の始まりは厄除の身代わり人形から始ったと言われており、昔はよい医者や薬が少なくなったので、子供が病気にかかって命をおとすことが非常に多かったと言われております。特に生産まれたばかりの赤ちゃんは抵抗力がないため、尊い命を落したそうです。だからどの家でも赤ちゃんが産まれると人形を飾って、その赤ちゃんの病気やケガの身代わりになってもらっていたのが始まりだと言われております。
人形展は、古い物では江戸時代のお雛様から、御殿雛、大正雛など、文化的にも価値のある雛人形を多数展示致しており、拝観料は400円になっております。また、人形供養料は3000円からとなっております。予約制の雛御膳も2000円にて御賞味頂けます。

是非この機会に、ご家族お揃いで御参詣頂きますよう御案内申し上げます。


1月14日 滋賀教区 蒲生組 西福寺住職 西澤義博師

皆様こんにちは。お元気でお過ごしの事と存じます。
野生のライオンは獲物を鋭い爪で押さえつけて、尖った鋭い円錐形をした犬歯を上下に動かして肉を引き裂き、骨を噛み砕いて飲み込んで食べる肉食動物であり、同じ動物でも牛や馬の犬歯は余り発達しておらず、臼の形をした歯で磨り潰して、顎を前後左右に動かして食べる草食動物であります。ところで、私たち人間は食べられるものなら何でも食べる雑食動物であります。何故、雑食出来るかといえば、牛や馬も持っている臼歯では穀物を、切歯では野菜や根菜類、果物、海草等を、ライオンも持っている犬歯では小魚や肉類を食べるよう出来ており、その様に違う種類の歯を持っているから、様々なものを食べる事が出来るのであります。ライオンは満腹になればそれ以上食べないように、本来食事は生きる為に食べるものでしたが、最近は味わう為に食べるように変化してまいり、自分の好きなものを片寄って食べ過ぎて内臓脂肪症候群等の病を得られている方が少なくありません。

では、どのような食べ方をすればいいのでしょうか?
成人した人間の歯は全部で三十二本あり、臼歯が二十本で全体の62.5%、切歯が八本で25%、犬歯が四本で12.5%、となっております。従って人間に適応した食べ物は穀類を62.5%、野菜や根菜類、果物、海草等を25%、小魚や肉類を12.5%、若しくは、夫々5・2・1の割合で食べるのが理想的であり、人間は何百万年もかかってこのような形の歯で過ごしてまいりました。朝になれば目が覚め、夜に来れば休むように出来ているのが人間に備わった自然の摂理であります。歯の形の役割通り食べ物を食べる事も自然の摂理であると思います。牛に狂牛病が発症したのは本来、草食である牛に肉骨粉などを強制的に餌として食べさせた事に原因があったことは記憶に新しい事であります。真盛上人様はお亡くなりになる前に「欲をおこさず、清らかな心でお念仏しなさい」とのお言葉を残されました。今日皆様があるのは御先祖様のお陰と、お念仏やお経を称えて頭脳を活性化させて、食事の際には、穀類5、野菜・根菜類・果物・海草等を2、小魚や肉類を1の割合で食べる人間の歯の役割を思い出し、よく噛んで食べることで、こめかみがよく動き脳への血の巡りがよくなり、唾液も分泌されて免疫力が高まり、満腹感が得られて食べ過ぎも防げ欲をおこさず、腹八分目をなり、心と体の健康を保って過ごして頂けるのではないかと存じます。



1月7日 滋賀教区宗務支所長 川合歳明師

『命を大切にする人間となろう』

皆様,新年をお元気でお迎えになり,おめでとうございます。
諺に「一年の計は元旦にあり」と申されておりますように,誰もが感じますことは,命の尊さの喜びとともに,「今年こそは」善き年でありますようにと思います。
思念早々にお寺や神社に初詣することは,誠に麗しい尊いものであります。
昨秋に一年の世相を一文字の漢字に表わす行事が京都 清水寺で,恒例の漢字に「 命 」が決り発表されました。全国の皆様より公募された一字でありますが,誠に「 命の尊さ 」を皆様が感じられていることがよく分かりました。
昨今は異常気象や自然の災害は人類の生命をおびやかしております。
また,世界ではテロや戦争・地域紛争が絶えることなく人の命を奪っております。人間が人間の生命を奪い取るという悲しいニュースが毎日のようにテレビ・新聞等で報道されていることは心痛の極みであります。
みほとけの教えは全てのものに「足ことを知る」。即ち宗祖大師の無欲清浄の慈悲の頂き,かけがえのない命,一度限りの命を大切に毎日の生活をいたずらに送らないで,人間に生まれた喜びに感謝して,この一年を心の平和, 世界の平和,命の尊さを目標としたいものであります。何よりも家庭の平和,家族の健康が大切であります。
楽しい一年でありますように祈念致します。


1月1日 滋賀教区 高島 大善寺住職 谷口義昭師

2007年の新年を迎え,おめでとうございます。
本年も何卒よろしくお願い申し上げます。
さて,一年の世相を一文字の漢字で表わす恒例の去年の漢字が「命」と決まりました。そこで,この命について少し考えてみたいと思います。
地球上ではあいも変わらず戦争は絶えないし,国内では,親が我が子を殺し子が親を殺し,先生が生徒を殺し子供のいじめによる自殺等,まさにこの世は絶望の時代と呼ぶしかありません。親は子供を産んだ以上,その子供を守る責任があるし,けがれのない心を,悪にそまぬ様に守る義務があります。だからこそ子供に教育をするのです。教育とは知識を与えるだけが教育ではありません。仏教でいう智慧を子供に与えるべきであると思います。例えば,「食事をする」という場面で,私たちは子供たちに何を教えどのように育てていったらよいのでしょうか。食事に対するしっかりした考えや指針をもち,ただ空腹を満たすだけの食事になってはならないと思います。最近流行っている食事形態でバイキングという方式がありますが,食べ放題,飲み放題と景気のいいうたい文句で宣伝されています。見ていると,取り皿に山盛りになる程の食べ物を取り,食べたいだけ食べて,あとは食べ残し,食事が終るとテーブルの上は散らかし放題で店を出て行きます。そんな姿を見ていますと,食事マナーと言うより自己中心的な人間の傲慢さが見え隠れします。「お金さえ払えばどんな食べ方をしようと個人の自由だ」「他人にとやかく言われたくない」。こうして食べきれない程の生きものの殺生をしながら,生きているのは現代の文明人だけではないでしょうか。
特に今の日本人の飽食生活には目にあまるものがあります。
この世において人間に食べられようと思って生きているものなど何ひとつありません。本当は何も殺さずに生きていけたらいいのですが,悲しいかな私たちは,ものの命を頂かなければ生きていけない定めです。
であるならば,無益な殺生は絶対にしないという決心が必要です。野菜や魚,動物などの命を頂きながら,私たちは生きていくことができるのです。
食事の前に手を合わせ「いただきます」と唱えるのは,『私たちが人間として,真実の道を歩むためにあなたの尊い命を,私の命の中に必ず生かします』という誓いの証しなのだと思います。
手を合わせ,あなたの命を頂かせてもらいます,という感謝の気持と謙虚な心でいただきたいものです。

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